ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

性別「モナリザ」の君へ。

昨日買った漫画の感想。ちょっと頭から離れないので。

 性別「モナリザ」の君へ。 1巻 (デジタル版ガンガンコミックスONLINE)

 

この作中世界において、人間は性別が無い状態で生まれる。12歳になる頃に自分がなりたい性別に身体が変化していき、14歳になる頃には男女に姿を変えていく…とされています。そんな中で主人公の「ひなせ」だけは性別が無いまま18度目の春を迎え、ある日幼馴染の男子「しおり」と女子「りつ」の2人から告白されて…というお話。

 

ネタバレはなるべくしないよう書きますが、まず私が惹かれたのはその世界観。12歳を迎えた際の回想で幼馴染が自身の性別を「男/女にする」と自身で選択する描写があり、どうやら自身に選択権があるようです。と言っても、12年間を過ごす中で自分がしっくりくる方を選んでいる訳なので、当人達にとっては自然に決まっているように思えます。私がこの身体に違和感を持ったのもちょうどこの頃なので、もし私がこの世界に生まれていたら恐らく女性を選択していたことでしょう。

 

以下は作中描写が無いので想像に過ぎませんが、この世界でトランスジェンダーが存在しないのかというと、そうとも限らないのではないでしょうか。我々の生きる現実世界においても、長い年月を出生時に割り当てられた性別で過ごし、学齢期終盤〜人によっては仕事を始めたり結婚したりしてからと、だいぶ経ってから性自認がはっきりする方はおられます。私の場合も違和感こそ12歳前後でしたが、自認を言葉で得たのはそれから10年以上後。作中の人々が12歳当時に選んだないし「なった」性別とは別の性別として生きる場合はどうするのだろうとふと気になりました。もしかしたら「無性別への性別適合手術」があるのかも知れませんし、思春期に性別を選択するという社会の性格上、そこから更に移行を考える人々には我々の世界以上の偏見が存在するのかも知れません。

 

性別を選択した ー 作中マジョリティにとってはそれを生涯不変のものとして選び取った ー が故の囚われのようなものは、作中描写からも感じ取れます。ひなせが思春期に入っても無性別のままであることは、最初は偏見の目に晒されていたようです。幼稚園や小学校はわかりませんが、高校では我々の世界と同じように体育が「男女」で分けられ(ひなせは更衣室ではなく教室で着替える措置が取られていました)、幼馴染のしおりとりつもそれぞれ告白の際に「ひなせを女/男にする」と宣言しています。後にりつの方は「好きなのは『ひなせ』だから」と付け加えてはいますが。性別の選択が一生に一度の機会だからこそ、作中の多くの人はその選択を時に疑わず、時に誇りを持ち、時に囚われるのでしょうね。

 

また、作中の「無性別」描写について私は、現実世界の我々が持つ囚われというか、現実世界で描写し得る限界のようなものを感じ取りました。

ひなせは作中では「キレイ系」として描かれ、容姿(顔立ちや髪の長さ)や口調は中性的で私服もユニセックスです(アニメ化したら小林ゆうさん辺りが声を当てそう)。一人称を使う場面はモノローグ含め数える程しかありませんが、一貫して男女どちらかに取られにくい「自分」を使っています。しかし制服は、ネクタイもリボンも着けていないとは言えメンズのワイシャツにスラックス。一方で男性と比べると華奢な体つきで男性として見ると長めの髪。肌を見せるシーンでは少なくとも視認できない位には体毛が薄い(漫画では表現しないだけかもですが)。

我々の世界の観点(というか私の観点?)で「無性別」を捉えようとするとどうしても「男女の中間・中性」に、そしてそれを表現すると「男性的要素を薄くする」ことに寄りがちだと思うのです(トランスジェンダーのパス度の問題にも通じるかも知れませんね)。男性的要素が薄くなった所にスカートを履かせてしまうとひなせの場合かなり女性的に見えてしまうでしょうから、あからさまに女性的な記号を付与しなかった=男性的な記号で以て釣り合いを取ったのだと思われます。

…とまぁ色々脈絡も無く書いてきましたが、現実世界における性別二元論の影響の大きさと囚われを感じつつも、本作はその中ででき得る最大限の「無性別」描写をしているように私は思います。絵柄も綺麗でストーリーの続きも気になる。果たしてひなせはどんな選択をするのか、はたまたしないのか。恋愛描写が多めではありますが、「好き」と相手の性別にまつわる”当たり前”にも切り込む展開になることを期待します。

 

みんな読もうな!(雑な宣伝)