ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

原家族 #1 学齢期前半

ありがたいことに読者様が増え、また自分史に多少は関わる部分もあるので、「なぜ両親へのカムアウトが無理なのか」という点について意を決して筆をとろうと思う。

 

実父

戦後間もない頃、地方山あいの農村に長男(生まれは2番目)として生まれたが、結婚はきょうだい4人の中で最も遅く40の時。私の従兄弟達(全員男性)の結婚・出産までは私が親族の中で永く最年少だった。”結婚・出産レース”からは私の家庭が最も「遅れを取っている」とも言える。

僻地故の格差を抱えつつも有名私大に進学・上京し、某法人に定年後の嘱託期間も含め年限まで勤務。私の学齢期後半までは仕事中心で国内外への出張も多かったが、家族に関する決裁権は握っていた。世の中の情勢には割と敏感な方だが、家族観に関しては年代や地域性もあり家父長制的・前時代的。

 

実母

都内西部の生まれで一人っ子。母(私にとっての祖母)は感情の起伏が激しく苛烈な性格(逞しいとも言える)。実母自身が学生時代に父(私にとっての祖父)を亡くしていることもあってか、子には苦労の無いように生きて欲しいという思いはあったのだろう。短大卒後の職場で実父と出会い結婚のち退職し専業主婦に。実母の”思想”については、出自よりも私の成長がセットになっている部分が大きい。

 

私と実母

昨日の記事にも書いた通りの教育ママ。私立幼稚園に通い、覚えている限りやった習い事は体操・絵画・英会話・リトミック。実母曰く、当の私は全部辞めたいと嘆くこと多々のようだったが。加えて、小学校受験をしたので塾にも通っていた。受験には相当お熱だったようで、当時の私は「小学校は受験に合格しないと入れないもので、落ちたらお先真っ暗」だと本気で思っていた。確か4〜5校は受けたと思うが結果は全滅。当時の私には落ちた後のビジョンなど無く、齢6にして落伍者の感覚を味わい「小学校にも行けず、これからどうやって生きていけばいいのか」と不安になったものだ。だから、公立小に入学するという話が出た時は先の道が拓けた一方で「落ちた人がしょうがなく入れてもらえる所にしか入れないなんて悔しい」と思った(実際は勿論そんなこと無い訳だが)。

 

小学校に入学したものの、実母にとっては受験での”挫折”に追い討ちをかけるように私が小1の2学期から学校に行けなくなったことで、更なる”挫折”を味わう羽目になったのであろう。程なくして母子でプレイセラピー&親カウンセリング(CPのケースとしては典型的な母子並行面接だ)や自治体主催の各種ケアプログラム等に通うこととなった。我が子を「治す」為にドクターショッピング的な面はあったかも知れない。不登校当時は何度となく両親が(恐らく)私に関することで言い争いをしていたのを覚えている。”治療”の効果が一向に見られない焦りや怒りからだろうか。恐らくそうだと推察するも、想像の域を出ない。争いがあったことは確か。9歳頃、仲裁に入ろうとして実父に「このクソガキ!!」と言われながら髪を掴まれた記憶は未だ鮮明。

 

飛び飛びながらも登校が再開したのが小5、復帰と言える状態になったのは小6。実母は(実父もだが)「このまま普通に戻って欲しい」と強く思っていただろうと振り返って思う。事実、当時の私もその期待を知ってか知らずか、小6ではかなり無理をして年間皆勤した。そして、今も言葉の端々から感じるこの思いこそが、私にかかった呪いの核であると感じている。

 

次回予告

この当時は私自身の性に関する話題には至らないが、「家父長制」「普通」といったキーワードが今後の展開を匂わせる。今日は私にかけられ両親が強く持つ「普通という呪い/普通への囚われ」の発端と思われるエピソードを振り返ってみた。しかし正直この話題について書くのはかなり労力が要るので(単に残業+明日が考課面談という以上の疲労感が今ある)、学齢期中盤以降については後日の記事に譲ることにする。明日書ければいいけれど。