ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

小学校時代(前半)

昨日の記事以降どんよりとした気分が続いていますが、土曜日までにこなすべき宿題があるのでその準備として記事として書きます。

 

でもぶっちゃけ、小学校の前半ってほとんど記憶らしい記憶が残っていないんですよね。時系列ですっぽりそこだけ抜け落ちている感覚で。なのでそもそも書けることは限られますが、まぁやっていきます。

 

学校に行かなくなるまで

受験に全滅したので、入ったのは地元の公立小学校。私の家は学区の端だったので、徒歩20分ほどかけて通っていました。幼稚園が隣区だったこともあり、知っている顔は一人としておらず。孤独な滑り出しでした。クラスメイトのほとんどは区内の幼稚園・保育園出身のようで、私は少し浮いた存在だったように思います。持ち物は年相応の男児のそれでしたが、他とは違うことでガラクタだとからかわれたことを今さっき思い出しました。

それも嫌と言えば嫌でしたが、最悪だったのは担任の存在。後で判ったことですが、赴任してから毎年特定の児童が標的にされ不登校に追いやられていたそう。奇しくもその年の標的は私になったのでした。給食の苦手なメニューを一人だけ放課後まで残って口に入れさせられたり、授業中にした発言が気に障ったのかこれまた一人だけ廊下に立っているよう言われたり。連絡帳にもその旨は書かれ、私が如何に問題児か酷評されていたような。あぁ…書こうと思うと思い出すエピソードってあるんですね。でもこれが限界。他にも色々あったはずですが、解離なのか何なのか完全に記憶から追いやってしまっているらしい。

 

そんなこんなで、2学期開始後すぐに登校渋りが始まりました。多分体調も崩していたことと思います。確か校長室で私と実母と校長の三者面談をしていた。そこで「行かない」宣言をしたのかどうかは定かではありませんが、それが恐らく小1では最後の登校だったのでしょう。

そこから学年が上がるまでは全く思い出せません。小2から某大学併設の相談室での母子並行面接や児童館通いが始まりましたが、児童館の方は長続きしなかったようです。ケアプログラムだったり一般の子供達の集まりだったり、色々あったと思うのですが。小2・3とそんな感じで過ごしていましたが、学校に通っていないことへの罪悪感は既にこの頃からありました。特に面接は家から電車で1時間ほどかかる所だったので、たとえ楽しいことがあっても「ほっつき歩いている」感覚は常に心のどこかにあった気がします。

(自分のことなのに伝聞・推定調が多いのは、はっきりとした記憶が無いからです)

 

性別にまつわること

さて、学齢期に入った途端に学校に行かなくなった訳なので、幸か不幸か男女分けや色分けで困る経験をこの時期はしなかったんですね。ただ、実母といる時間が圧倒的に多かったこともあってか、幼稚園時代以上に男女の身体の差を意識するようになりました。下記は「敢えて挙げるとしたら」程度のものですが、何か違和感を感じていたとしたら役割よりは身体の方だったと思います。

  • 実母との入浴時や外出中にマネキンを見た際に、自身の身体が「そのようでない」のが”気になった”。嫌だとまで思っていたかは定かではない。
  • よく自身の性器を挟んで局部を平らに見せていた。
  • スーパーの服売り場では男児よりも女児のインナーを見たかったが、確か実母に窘められて「いけないこと」だと思うようになった。
  • 出先のトイレに和式便器があると、立位よりもそれを使って小用をしたがった。
  • 小3の年の誕生日にぬいぐるみを買い与えられて以降、ぬいぐるみや「かわいらしくて丸っこくてふわふわしたもの」が大好きになった(高学年以降から現在に至るまで、ぬいぐるみ集めの趣味は続いている)。市販・手作り問わずよくせがんだものだ。
  • 相変わらず、特撮やロボット関係のコンテンツには全く興味が無かった。

 

…とまぁ、思い当たるのはこんな具合なので大したことは無いのですが。寧ろ、5年弱続いた不登校の方がよっぽど”大したこと”です。

この時期ははっきり思い出せることが本当に少ないし、幼少期のエピソードを当時の感情と共にありありと思い出せる人達を羨ましく思います。逆に記憶が鮮明過ぎるとか忘れたくても忘れられないとか、そういった苦悩もあるでしょうが…。

 

次回の自分史の足掛かりにするには不十分ですが、ここら辺が私の今の限界ということでひとつご容赦。仕事中に思い出していたらそれに引っ張られて気分が落ちてしまった…。うーん、気管支炎ももう一声って感じだし、今週は前半から落ち気味だなぁ。