ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

小学校時代(後半)

提出が迫っているので急ぎ書く(575)。

低学年から続いていた蟄居からの復帰と第二次性徴に片足を突っ込んだことで揺れに揺れ、恐らく私史上最も感情の起伏が激しかった頃。11/23の記事に書いた、自分を「感じない」人間にしたのもこの時期の終盤。正直、書く気力が十分ではなく書けなかった所はあるが、無い気力を振り絞って以下まとめてみようと思う。

 

学校復帰へ

基本的な生活スタイルは低学年の頃と変わらず。新しいことは、循環器の持病と出歩かないことでの健康面での懸念から某大学病院の小児科の通院も始まったことくらい。小3後半〜小4初め位からだったか。そこの外来医長が児童精神医学の専門ということもあり、実母はそれを頼ったのであろう。不登校以降、マトモに「友人」と言える存在が初めてできたのもここでのこと。お互いこの小児科の患者で似た境遇のいわば”同志”。親同士の話が弾んだのか交流を持つようになり、病院以外の日も約束をして何度か出かけたような(親同伴だけど)。因みに本人は+1歳の男子。さっきFacebookで名前を検索してみたけど発見できなかった。今はどうしているのだろう。

 

さてさて、学校への本格的な復帰こそ以前より言及していたように小6の頃ではあったが、慣らし運転のように小5から飛び飛びではあるが少しずつ学校に足を運ぶようになった。その時により教室だったり保健室だったり。保健室6:教室4といったところか。まぁ登校を再開した理由が「このままずっと学校に行けなかったら”どうかしてしまう”のではないか」という将来への絶望に近い不安と危機感からなので、壊れたエンジンを無理矢理動かしていたようなものだった。不安の内実に「中学にも行けないのでは」「働けないのでは」とかがあったのではなく、実際に「”どうかしてしまう”のでは」と非常に漠然としていた。未来を現実的に語ったり直面化させることが苦手で、それこそ漠然と不安を煽るのが今も昔も得意な実母の為せる業と言えよう。私自身も学校に行っていない分だけ言語の運用もできなかったのだからお互い様。

 

慣らし運転とは言っても、転校生という訳でもなく「今まで籍はあるのに居なかった」人がポッと現れた上に、集団生活のお作法のわからぬ私でしたから、教室に入った日にはクラスメイト(とも呼びたくないが)から奇異の目で見られ時に中傷を浴びせられるのは必至だった。当時はランドセルへの拒否反応から1人だけリュック通学だったし。「○○菌」だの「デブ」だの「来るな」だの他にも散々言われながらも、再び長期に登校が途切れてはお終いだと保健室と教室を往復しながら通い続けた。

小6になってからは今まで以上の危機感も勿論あったが、担任となった熱血教師がかなり気に掛けてくれたこともあり、1年間皆勤で卒業した(全課程を修了したとは言ってない)。中傷が止んだ訳ではなかったし、私自身も当たり散らし明確に”対立"や”喧嘩”と呼べる行為をすることも増えたが、そうしつつも時に冗談を言い合える程度には私も集団のお作法を僅かに身につけた。化学クラブに入って書記を務めたのも良い影響だったのだろう。

なお中学は居住地の関係で、中傷をした面々とは別の中学に通うこととなる。

 

性別にまつわるあれこれ

1.コンテンツ

小3の誕生日にピカチュウのぬいぐるみを買い与えられて以降、「かわいらしいキャラクター」への興味を強く自覚した。少なく小遣いでマスコットやらぬいぐるみやらを買い集めるようになり、確か小学校時代の残り3回の誕生日プレゼントは全部ぬいぐるみだったと記憶している。相変わらずロボットものには関心が無かったし、スポーツにも関心が無かった。テレビやゲームの曲を聴いてはピアニカで鳴らして遊んでいたと思う。

学校復帰後は周囲の話題に合わせる目的もあり少しは男児向けのアニメや漫画にも目を通すようになったが、女児向けアニメやそこに登場するマスコットキャラのかわいさにはやはり惹かれるものがあり、近所の目を忍んで閉店直前のスーパーの玩具売り場でグッズを買ったものだ。

また、小5以降は読んでいた学年誌の影響もあり、いわゆる「TSもの」やそれに準ずる作品に強く惹かれた。異性装、性転換、異性への憑依等には胸が高鳴ったし、自身に訪れる変化も相俟って反対側の性への憧れが強まった。

因みに今でもこの手のジャンルは好きだし、異性装や中性的なキャラクターの魅力は何物にも代え難い。プレイしているスマホゲームにも元宝塚男役の人が声を当てている中性的美人なキャラクターがつい先日登場したが、ガチャで引き当てることは叶わなかった。

 

2.学校・家庭にて

復帰前の小4時の担任(若い新婚の女性)は私を気に掛けてか定期的に家庭訪問に来た。その際はよくお店屋さんごっこをしていた記憶がうっすらとある。復帰後の交友関係(と言えるものでもないが)としては、やや男子の方が多め。女子との交流が無い訳ではなく、特に(出席番号で分けられた)班での清掃時は男子より女子と話していた。全体としてはどちらかに偏ってはいなかったと思う。どちらも家に呼んだことはあったし。

家庭ではまず私の学校への適応が重視されたのか、この頃はまだ男らしさの何たるかを説かれることは無かった(なお中学以降は)。ただ髪については「男の子の髪は短いもの」という”常識”は知っていたしその通りに短かった。というかこの頃が私史上最も短い。坊主。小5の頃、幼稚園から通っていた床屋で初めて髪型の希望を出した。漫画のキャラか雑誌の芸能人か、とにかくその切り抜きを見せた。長髪をポニーテールにまとめた女性の切り抜き。断られた私はそこで初めて、床屋で髪を切ることはできても長くすることはできないと知った。ショックだった。以降は希望を出すことも無く、月に一度のルーチンとして散髪に通い続けることになる。だって、「男の子の髪は短いもの」だから。

 

3.第二次性徴に伴い

以前よりあった男女の違いへの関心は更に強まり、教科書や学年誌性教育に当たるページや記事をよく読み返していた。学校に復帰してからは、いよいよ男女分けや同年代の生身の”異性”の洗礼を受けることに。

トイレ、体育、服装…くらいの順番でだろうか、「私は何で”あちらのようではない”のだろう」との嘆きが強く出てきた。着替えの時は”同性”に身体を見られたくなかったし、服に色々な選択肢があることは羨ましかった。また、小学校時代に起こった第二次性徴は顔から下の体毛が発達する程度ではあったが、それでも“付いている”ことそのものが嫌になってきていた。特にトイレはそれを嫌でも意識させられてしまうし、オープンな空間でもあったことは苦痛だった。しかし当時は個室に入ることはからかいのもとであったから仕方無く使っていた。

 

そして中学へ…

学校環境のこともあり、これ以上の変化が無かったのは不幸中の幸いと言うべきか。中学入学後には更なる変化に見舞われる訳だが。まだまだこの頃は萌芽という感じ。うーん、なかなかコンパクトにはまとまらないなぁ。