ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

神との関わり

クリスマス当日。昨夜のイブ礼拝参列後、どうにもこれからのキリスト教への関わり方について考えてしまいます。

 

信仰に至れなかったまでも風習・文化としては8年ほど馴染んできました。クリスマスの他に、イースターペンテコステの時期にもやはり教会での日々が思い出されます。何某かの超越者と言われて思い浮かぶのも、実父の信ずる仏教(浄土真宗本願寺派)ではなくキリスト教(プロテスタント)のそれ。折に触れて意識する時が続き今回のような事態になった、これを私が神から離れていた間も神は目を留めていて下さったと考えることもできましょう。しかし一度は教会を離れatheistを名乗った身。此度の参列は一つの「御導き」なのかも知れませんが、その生活を取り戻すには7年のブランクがあまりにも長い。

また現実問題として、音楽活動と主日礼拝との兼ね合いや自身のセクシュアリティの問題も新たに絡んできます。どこで参列するかもそうですし、継続するのであればそこの人達との関係も築いてくことになる。かつては「青年会」や「聖歌隊」に身を置いていましたが、どの程度コミットするのか、そもそもどこかに定着するのか渡り鳥となるのか。懸念は枚挙に暇がありません。

 

昨夜のメッセージを通して、かつては思い至ら/れなかったことに引っ掛かりそうな感覚があります。頭だけで考えていたことが少しだけ体におりてきたとでも言いましょうか。思うに、信仰は「目が開かれ」て教えを理解しこれまでと違う新しいフェイズに移行した静的な状態というよりは、日々エゴや諦念に呑まれてしまってもなお神の教えを守ろうと「立ち返る」動的な過程なのではないか?と。私のこの考察はともかくとして、7年前とは違う体験を得られるかも知れない焦りは多分にあるのでしょう。

しかし何にしても、ブランク明けでいきなりエンジン全開というのは形として不健全。少しずつ意識を向ける機会を増やして、いや取り戻していく所から始めるのが良いような気がします。クリスマス、イースターペンテコステの三大祝祭の際に礼拝に参列する、というのを手始めにしましょうか。ただし義務感にはならぬようにだけは注意を。

思えば高校の授業の一環で教会に通うとなった際、かつて通っていた教会を見付けてきたのは実母でした。実母本人は決して礼拝に参列することはありませんでしたが、私を通じて何かしら(主に物品)の"お心遣い"を教会の方々にしており、教会と同時に私に対しても恩を売っていたように振り返って思います。当時教会に通い続けた同期の一部分に「母の手前」があったことは否定できません。そうなっては意味が無い。あくまで今回のような導きと、加えて私の立ち返りによって関わっていけますように。

 

ああ、なんだろう。告解やら祈りやら、そんな風な文章になってしまった。こんなに真剣にキリスト教のことを考えたクリスマスなんて、今まであっただろうか。