ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

父と息子

2週間も書けずにいた実父への返信。ようやく書き上げたそれを、まずは昨日の通院で主治医に見せて相談しました。

曰く『本音をぶつけ合う親子の会話』に見えて辛辣さは鳴りを潜めたとのこと。『親子ですから自分の気持ちを伝えるのは大切』というのはその通り。だが、私は今までそれが全くできてきませんでした。実父は普段は冷静ですが、こちらが意見する……というか「親子関係の序列に反する物言い」にはやたら沸点が低く『親をなめるんじゃない!!』と激昂してテーブルを叩かれ議論にならないのがオチ。これがあるので今までは両親からの"常識的なアドバイス"を話半分に聞き流し、反論もせず黙り込むことしかできなかった。その結果があのメール(pdf)とも言えるでしょう。

本当は返信せずスルーして法要に参列すれば丸く収まったのかも知れませんが、先約の内容的にそこは譲りたくなくて。加えて、あそこまでのお気持ち表明をよこしてきた所を考えると、もうはぐらかすのは限界ではないか……とも判断しました。

 

今朝観に行った映画「息子のままで女子になる(英題: You decide.)」もちょうど父子関係が作中に流れる一つのテーマ。父親と向き合う畑島楓さんの姿が私の背中を押した所は少なからずあります。かなり長いですが、私も父に対して下記お気持ち表明をしてこようかと。

メールありがとうございます。色々と思いを書いてくださったので、遅くなりましたが私も貰ったメールについて思ったことをお伝えしようと思います。おかしい・薄情者・独りよがりと感じる所があるとは思います。ですが、私も今まで考えてはいながらできていなかった言葉にしての「自己主張」、どうか冷静に読んで頂きたいです。

 

まず『子供だからと言って、生活をコントロールするつもりは毛頭ないが』という書き方が、コントロールする気がある上での予防線に思えてしまいます。たとえ本当にその意図が無くとも、そう感じざるを得ません。そんなに私が"両親が欲しい私"を供給し続けないと不安ですか?『たまには会って近況を報告しあうことで、安心したい』と言っているからには、私と会って安心したいのでしょう。しかし私は、いざ会うとなると「また自分がしたくないことをしろと言われるんじゃないか」「おかしいと言われたくない」と不安で、緊張するようになってしまっています。先の一周忌の時もそうでした。

 

また、『愛する人との生活、家族との交流は、独りよがりの生活になることを予防するための薬のようなものです。そのように思いませんか』ともありましたが、私は必ずしもそうだとは思いません。薬も強過ぎれば毒になると言います。独りよがりで結構……は言い過ぎかな。ですが、今は自分の為に自分らしく生きたいと思っているのです。

『先ずはこれと決めた人と一つ屋根の下で生活することで、その人を思いやる心が育ち(中略)何でも一人でやれると自分中心の心や態度が強くなり社会と断絶することになります』ここにある「パートナーとの結婚・同居から思いやりが生まれて社会との良好な関係が築ける」という図式、私には「こうすればこうなるに決まっている」という固定観念があまりに強過ぎに思えます。ちょっと古過ぎ。私は今の所彼女も彼氏もいませんが、恋人がいない人・恋愛ができない人・独身を通すと決めた人……そういう数多の人達に対しても失礼な言葉に感じます。「パートナーがいないと社会で良い人間関係が築けない」と不安を駆り立てやしませんか。私は社会と断絶してはいません。父の言葉の最も身近な反証になります。

それに、『同年輩の人』には「年長者たる家族」ができるような、自己中心的な考えを脱却させるようなアドバイスは望めないと言いたいのでしょうか。どうも「自分の考え方が中心=悪・罪」という考えが根底にあってこういう言葉は出てきていると感じる(ここの罪は宗教にもあるいわゆる道義的な意味での罪sinを指します)。独善的な人は確かに私も好きません。ですが、自分の確固たる考えを・意思を持って何が悪いのですか。私がそれを持ったら不都合なことでもあるのですか。しかも、この言葉は私の友人達にだって失礼です。大切な友人達・音楽仲間・尊敬できる年長者……私の周りには、たくさんの教えやアドバイスをくれて、時には異なる考えで対立し厳しい指摘を受けながらも良き関係を築けている多くの人々がいます。中には年下の人だっています。年齢じゃないよ。

固定観念の多いのはもしかしたら私もそうかも知れませんが、時代にそぐわないタイプのそれを持ちながら『多様化が求められる時代だから、これでなければいけないとする固定的な考え方は古いのかもしれない』と言われても説得力が無いし、その頭頂部のように"うすうす"思っている通り古いです。というか、心を痛めている時点で固定的な考え方から抜けられていないような気がします。新しい時代や私個人に寄り添っているように見せておいて、逃げ口上或いはポーズとして『多様化』『固定的な考え方は古い』という言葉を使っているだけなのではないですか。世間的に聞こえがいい言葉だから。多様な価値観があると認めるなら、私のこうした「おかしい・薄情者・独りよがり」と父が感じそうな考え方も、肯定はしなくて良いですから『こういう考え方もあるんだな』程度でせめて否定はしないで欲しいと強く願います。

 

法要についてだって『どのような予定かは知りませんが、このような時に、家族と気持ちを通わせていない生活の結果が現れるものです。3回忌法要か自分に予定のどちらが優先度が高いか考えて、是非とも参列してほしいと希望します』と、一度行けない旨を伝えて母が(渋々ではあったと思いますが)了承して下さったことです。この予定は、今の趣味・活動を続けている中でもそうそうあることじゃないんです。2~3年に一度あれば良い方ってくらいに稀なことでね。私にとって千載一遇の機会なので、逃したくないんです。法要に参列したいのもやまやまですが、こうした都合がある中でせっかくの機会を捨ててまで(そこにいる付き合いの長い仲間達にも礼を失してしまいますし)形だけ法要に私がいるのがこれほど懇願するまで重要なことなのかなと思います。弔いの気持ちって、法要とか「その場にいる」ことだけでしか表せないことではないはずです。

COVID-19の感染対策がいくらお互いにできていたとしても、今の私は2人に会うのがとても負担。イエありきで一面的な生き方しか認めない古い価値観が、多様性が謳われる時代に自分らしく個を重視して生きたい私にはとてもとても負担。先約のことも込みで、この負担もあり申し訳ありませんが当日の参列はできません。価値観についても良い悪いではなくかなり隔たりがあるようですし、できれば『会いたい会いたい来て来て』ではなく、お互いに考えを巡らせる期間を持てませんか。冷却期間と言うと少し意味合いが変わってしまうかも知れないけれど。「便りが無いのは良い便り」という言葉もあります。私はこの言葉がとても好きです。勿論、有事の際の連絡まで断つというわけではありません。ここは当然だと考えています。恩知らずに変貌してしまった訳でもありません。ただ、子の立場としてはもう少し私を個人として尊重し、放っておいて欲しかったなと思うのです。善意は、親心は、残念ながら時に首を絞める真綿にもなります。

 

これが、今の私の正直な気持ちです。対面だったら『親をなめるんじゃない!』とテーブルを叩かれておしまいな気がしたので、長々しいですがメールにて「自己主張」させて頂きました。法要当日は、スタジオから天の祖母に手を合わせます(寺が許可するようなら中継を繋いでくれれば、その時間帯だけは抜けられます。母と電話した時は先方に確認を取っていなかったみたいですが)。

奇しくも今日は父の日。とんでもない親不孝は承知の上ですが、私が今まで溜めに溜めてきた思いを伝えるにはちょうど良い機会なのかも知れません。今から不安と緊張で心が潰れそうですが、日付が変わる前くらいにメールをしようと思います。実家に来いとか仕事終わりに話せるかとか、そうした呼び出しからの"報復"は絶対にあるでしょうね。