ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

ゾロ目

に、なりました。もう前半とは名乗れない歳。世間的にも取り返しのつかなくなってくる歳。外側だけは立派な中年男性。それにしては、選び取った結果とはいえガキのままな幼い在り方が抜けていないと思います。

 

この1年で今まで支持していた思想の持つ欺瞞に気が付いて、自身の"前科"に対する償いや弱者の安全、容姿問わず当事者が救われる社会を願っての配信を意識的にするようにしてきました。新たに連帯できた方々も多い一方で、繋がっていた多くの方々とも袂を分かつ結果になってしまったのは残念です。特にお世話になっている方の内の数名からは、ダークサイドに堕ちたと言われてしまう始末。ダークサイド=シス(sith/cis)というのは皮肉な。ただ、私にはそう言われるだけの短絡的な所や幼稚さがあったのも事実。

特に、自分の経験や考えを一般化し過ぎる傾向は顕著でした。「自分がそうだ/そう思うから相手(或いは相手が属するカテゴリ全体)もそうだろう」という信念に基づいて論じることで、差別的だと糾弾された回数は数知れず。

  • 私が女性に危害を加えてきた」→「男は性欲を満たす為なら何だってする」
  • 私は完ノンパスでトラブルが起きたことは無いから支障無く男性用スペースを利用できると思っている」→「完ノンパスだと称するトランスなら弁えて男性用スペースを使うはず」
  • 私は診断書もあるが見た目や生育歴が理由でカミングアウトをしようが信じてもらえないので、懇切丁寧に説明し認めて頂く必要があると思っている」→「トランスは見た目や診断だけでは説得力が担保できないから説明義務が要る」
  • 私の外見はかなり男っぽいし仮に治療を進められても埋没は不可能だから、どうあっても生まれは男で男の身体なんだという事実を受け止めた上で生きよう」→「トランスはどこまで行っても生まれた身体の性別」

こう振り返ってみると、いかに自分の信念や解釈を拡大し自他の境界無く述べていたかが窺えます。ですが、このような自分の考えに基づいて女性の安全確保を訴えたり一人の中年当事者として現代日本でのサバイバル方法を広めたりすると、『他の当事者を踏む』ということが――綺麗事を言っても仕方が無いので正直に言いますが――まだ腑に落ちないのです。

 

自分の意見と一般論とは切り分けて考え述べるべきというのは当然ながら、どうしても自分の意見をイコール一般論として述べたいという衝動にも近い気持ちがある。「他の当事者も私が考えているのと同じように考えてほしい」とでも言うのか……。それが過ぎれば「同じことを思えよ!これが"正しい"んだ!"普通"なんだ!何でわからないんだよ!お前おかしいぞ!」に繋がるというのは頭では想像できるし、それは私が今までされてきて嫌で嫌でたまらなかったことなのに。

例えば原家族が私にいうお小言の多くはあちらさんが思うところの"一般論"で、自身のセクシュアリティ故に"伝統的家族"の規範に従えない私には重苦しいし何より「大きなお世話」だと感じる。Aセクシュアルの立場で『周りに女性が多いんだから早く彼女を作れ』とか『お前も吉原(遊郭)に行ってみたらどうだ』とか言われた時の腹立たしさたるや。ネット上の論壇に於いては私の方がここで言う原家族の立場になっていて、私のツイートを見る他の当事者が私の立場に置かれているのだとは思うのですが……何故だか自分の中でこの二つが噛み合わない。支持思想の転向が鍵になっているような気はするのだけれど。ごめんなさい、これについてはもう少し考えさせてください。

 

ゾロ目の歳にしては遅過ぎますが、自分の幼さと向き合う時がようやく来たのかも知れません。後退することの無い1年にできればと思います。さて、そろそろ自立支援医療の手続きへ。