ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

「シモーヌ Vol.5」より「時計の針を抜く」感想

(株)現代書館より刊行されているフェミニズム入門ブック「シモーヌ」。この度、11月22日に発売された本誌のVol.5を、石川県立看護大学の高井ゆと里講師よりご恵投頂きました。この場をお借りして御礼申し上げます。

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元々予約するつもりでいたのですが、「時計の針を抜く トランスジェンダーが閉じ込めた時間」というエッセイを寄稿された高井講師よりご連絡を頂戴し、拙ブログを一部引用して下さったとのこと。他に引用されていた多くのブログは私も読んだことがあるものばかりでそこに加わることへの罪悪感もありましたが、これも何かのご縁。涙を堪えながら読ませて頂きました。拝読しての感想(もとい、応答にもなるのでしょうか)を下記述べさせて頂きます。

  

トランスジェンダーの生きる時間と性別移行のプロセスを時計と旅になぞらえたこと、まずそれが私にはしっくりと来た。移行に伴い『時間を超越する』という見方は、我が身を振り返っても覚えのあるものである。『生活の土地を離れ〜新たな地に降り立』ちはしていない私であるが、治療を始めてからは*1特に実家の両親とは会わぬよう努めている。両親の頭にある私と現在の私自身には、外見云々を抜きにして明らかに*2時間的な乖離を認められよう。それはかたや時計が止まったままでかたや進んでいるのかも知れないし、同じ進みのように見えて異なる"時間軸"をゆくものかも知れない。いずれにせよ、時間という視点でトランスを見た時に、『今日も生きている』ことは大前提としながらも「シスジェンダーとは確実に異なる時の流れ方をしている」ということは、このエッセイへの共感としても自身の実感としても強く感じるところだ。

 

シスであれば(その中での差異はあるにせよトランスに比べて)ある程度自然に時計の針は進んでいくが、トランスは往々にしてそうはいかないと私は思う。自身のここ3年ほどを振り返ると、確かに診断や睾丸摘出などで進んだ部分はあった。性別移行がなかなか進まぬ中でも実は『時計の針を前に進め』ていたことに、自分のことながらハッと気付かされ、目頭が熱くなった。*3でもそれは分針の方の話で、私にとって時針の方は未だ止まったままだ。

「私は困らないから」と『オンライン上の苛烈な差別』をはじめとしたトランスを取り巻く昨今の論調に対して同調し自身を納得させ、事実職場にも実家にもカミングアウトせず、髪やメイク等の"疑われる"要素をその都度隠し、日常的には(出生時の性である)男性として生活してきた。自らの意思で時針を進めずいた(will not)のだが、これは本当に私ただ一人の意思によるものだったのだろうか。進め"られなかった"(can not)のではないか。前職で髪を切らされた経験、現職に強く残る性別役割分業、大柄で毛深い自身の外見、浮いた話が一切無い私に対して吉原に行ってみろと諭す実父、LGBT特にトランスジェンダーを大問題だと言い放った実母……。私の意思以外のことを挙げようと思えば挙がってくるもので、しかしそれは自身の置かれた状況を考えると仕方の無いことでもある。

……と、思っていたのだが、先程「進め"られなかった"のではないか」と書き出した辺りから何故だか目頭が熱くなり涙が止まらない。鼻水と涙でせっかくの日焼け止めが流れてしまい、顔がぐちゃぐちゃ。書いているのが自宅内で良かった。この時の「堰を切ったように」とでも表現するのが適切に思えた身体の反応こそが、私が現状に対して感じていることのあらわれなのかも知れない。「私は困らないから」とは述べたものの、本当に何も困らず過ごせていただろうか。日常の様々な場面でモヤモヤとチクチクと感じる瞬間を、"困った"瞬間を、我慢し見ないようにしていただけではなかろうか。時針を進めることで得られるであろう『生が肯定され慈しまれる未来』よりも喪われるものや責められることに意識が向き、身動きが取れずにいることは確かだ。

性別移行を進めるに当たって勇気や図太さが必要だと先達たる他の当事者は言う。私自身にそれが欠けているのは言うまでもない。表向きとは言え一時期は「断念宣言」までしたくらいだ。自身の要因と先に挙げた環境的な要因は幾重にも絡み合い針の進みを妨げている。それでも私にとってジェンダークリニックの受診や髪を伸ばし始めたことや睾丸摘出等は確実にそれまでの自分から大きく変わることであり、『時計の針を前に進める力』を行使したことに変わりは無いのだろう。それが時針ではなく分針であったとしても。

 

私が今後『止まってしまった時計の針を抜く』ことができるのか、仮にできたとしていつになるのかはわからない。しかし、最後の一文『どうか、共にある未来を生きてほしい』にまたも涙した私が、日々を綴る一人のトランスジェンダー当事者としてこのエッセイにエンパワーされたことだけは紛れも無い事実である。私は、私が望む未来を生きたい。

*1:冠婚葬祭を除いて。と言ってもその冠婚葬祭も非常に心を消耗するひとときではある。

*2:クロノスというよりはカイロス的時間だろうか。

*3:日々のホルモン治療のような緩やかな変化を分針、それに対しての決定的な変化を時針としてみる。