ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

渋谷ジェンダー映画祭

本日は渋谷区文化総合センター大和田ダイバーシティセンター・アイリスのイベントへ久々参加。「渋谷ジェンダー映画祭」にて、サリー楓さんのドキュメンタリー「息子のままで、女子になる(英題:You decide.)」の上映があると知り、三度目の鑑賞に赴きました。

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私がこんなリピーターをしているのは当事者の映画だからというのもそうですが、その中でも(父)親との関係に焦点が当たっている点が大きな理由としてあります。私自身は未だセクシュアリティを両親にカミングアウトできていない身ですが、親子関係の中で互いが互いをどう位置づけるのか……そこは初見当時と今では違った感情が起こると予想し、実際その通りに。実父との長文メール、2023年の元日、それを経た私はラストの手紙のシーンで初めて涙ぐみました。子として親に抱く恩義や感謝と、自分を否定されることへの恐怖。世代差のある親という立場からわからないこともありつつ、子と一個人同士として向き合う姿勢。映画で描かれていたような関係性には程遠いながらも、それに似た思いが私の実父にもあったのでは……と思えたことが私の感情に強く響いたのでしょう。

 

上映終わって、主演&監督によるアフタートーク。『女子になりたい』という思いが移行開始当初より薄れていって、服装やメイクがナチュラルになり自分が居心地の良いものになっていった……というサリー楓さんの語りにはとても共感できました。これは決してdetransitionではなく、当初は「らしさ」に囚われていたけれど色々と経験した結果として収まりの良い所に着地したものと私は(自身の同様の経験を踏まえ)解釈しています。

また『You decide.』という言葉には、SNSのトランス当事者内でよく言われる「性他認」という言葉との類似性を覚えました。どちらも、性的マイノリティとしての自分が在りたいように生きられるかが社会に委ねられている現状を表した言葉だと思います。本来そうあるべきではないとの枕が付いた上で、それでもなお自分の外側に判断を委ねる姿勢は、必ずしも受け身的と言えるのでしょうか。「強制的」「せざるを得ない」と形容したくなるかもしれません。

しかし一方で、そういう社会に合わせに行く主体的な営みという側面は無いでしょうか。特にバイナリな当事者の中には、トランスではなく移行先の性別(ただの『女性/男性』)として埋没することを強く志向する者もいます。「あなた」や「社会」の判断は間違わないという強い自負や、種々の恵まれた要素を持ってのことでしょう。とはいえ、当事者が皆そうできるとは限らない。今の社会にただ合わせに行くだけでは、政権の中枢ですら「あんな」である差別的な社会構造の追認になりかねないと思います。でも「この今」を生きる上では処世術として合わせる必要も現実としてある。そんな必要悪としての迎合をあらゆる場面において真に主体的な営みと言い切れはしなくても、完全に強制されていると切り捨てることもまたできません。一人ひとりがその異なる人生において、私が決めつつあなたが決めつつ過ごしていく。そのコミュニケーションを健全な形で行える社会は来てほしいと願っています。

 

振り返って「You decide.」は、いち当事者としての自身の人生のフェイズに応じて見え方・感じ方が変わってくる映画でした。また、私が何か変わった折に見る機会があったら、別の感想を抱くのですかね。リピーターが席を埋めることへの躊躇いもありましたが、行って良かったです。