ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

「性と生殖をめぐる倫理と情動」

本日、上記タイトルのセミナーを視聴しておりました。群馬大学の高井ゆと里准教授と「優生保護法問題の全面解決をめざす全国連絡会」の大橋由香子共同代表による研究会。関心のあるテーマ且つ*1ありがたくも無料視聴できるということで視聴させていただきましたが、聴きながらまるで逆張りかのような感想しか出てこない自分がいることに気が付き悲しくなりました。*2結論ありきの頭になってしまってはもはやどうにもならない、ということなのでしょうか。

※囲みの中は、書きながら思ったことの追記です。

 

WPATHによる2015年声明において、当事者当人のジェンダーアイデンティティは診断等の"お墨付き"に拠るものではない旨が言われていますが、では何によって認められるのか。"お墨付き"、ないしは相応の"説得力"が無ければ、その人が「本当に○性(反対の性別)たろうとしているか」、つまりは『あぁ、やっぱりあなたは○性なんだね』と納得したい"素朴な疑問"への回答はできないのではないでしょうか。マイノリティもマジョリティも、日々この"素朴"な視線を互いに向けながら生きている以上は、生活するコミュニティにおいて異分子と見なされかねないことは避けるのが道理のように私には思えます。

(一方、『~によって』という他者を介在させる前提設定自体が誤りなのかとの疑問が無くもない)

こうした世間の中で生きることを考えると、特例法も違った見え方をしてきそう。不妊化要件の理由として挙げられる『生まれた子どもが不幸になる』をはじめとしたトランス当事者には養育能力が無いとの偏見とされる言説も、たとえ当人に養育能力があろうと子どもが偏見に晒されてしまうことを防ぎたいとの意味合いもあるように思えてきます。

(よその家庭に対して余計なお世話、なだけかもしれないし、そもそも偏見自体を無くせという話なのだろうか)

SRSについても、手術へのインセンティブ・誘導の要因がある以上は正常な同意たり得ないとのこと。言葉通りに読んでもそれはそうだと、「ですよね」と思う。しかし、同時に手術は世間への強い説得力たり得るとも感じます。手術を受けた人が真の……といった本物かどうかの線引きもどうでも良くは無く、"本物"的であることが日々の人間関係の中で受け入れられる為、脅威を抱かれない為に必要でしょう。

(陰茎という有無の目立つものが関わるMtに偏った見解であるとは自覚している。また、本物と偽物を比較し自分は脅威ではないと喧伝する振る舞いは、ずっと自分をかわいそうな・二級的な存在に定置させることにならないだろうか。だからこそ埋没し、性的マイノリティとは無関係な一人の"ただの○性"として生きたい、そっとしておいてほしいと志向する当事者の声が散見されるのだろうが。)

 

また、堕胎罪のあった時代や優生保護法が生まれる経緯を聞くにつけ、開いた口が塞がらなかったです。中絶の為に本当に文字通り何でもした女性達がいたことには悲痛さで身体と心が握り潰されるような感覚が湧き、人口減少に際して混血児が増えたら困るから質を重視するという考えにはリアルタイムで「は?」と声が出ました。困るって何に?本気で言っているのか?と。こんな差別的な下地の上にできた法律だったとは恥ずかしながら知らず。

大橋氏は『手術というのは病気や怪我からより健康になる為のもの』と仰っていましたが、これは私の実感としても同意するところ。昔受けた循環器系の手術によって生活上の制限は取り払われたし、睾丸摘出によってどうにもならない性器への嫌悪感の時化は凪となった。『健康』よりも「well-being」の方が私の実感には近いかも。しかし*3優生保護法下での手術はこうした目的ではなくまさに不妊化である、と。途中から精神疾患など遺伝性以外の理由によるものも認めてしまったのだから、一貫性など欠片も無いフォビックな法律だと感じてしまう。

(望んで受けた睾丸摘出、果たしてインセンティブの介在はあったのだろうか。そうでないと自分では思っていても、構造としては存在していたのかもしれない)

 

こうした『思惑』を持って成されてきた日本の人口政策の問題点として、性や生殖について決めるのは本人というSRHR視点の不在がある、と。確かに構造からしてそうだ。特例法にしても、今回は挙がらなかったが同性婚をめぐる動きに関しても。

しかし一方で、「本人の我儘だけでは社会は回らない」「自分の選択なら相応の謗りを受け背負うことを納得した上で選ぶべきだ」とも感じてしまった。これは家父長制に阿った態度なのだろうか。「自分が生きている内には一人ひとりの選択が尊重され差別から自由になる社会はどうせ来ないのだから、ならば少しでも差別や偏見の目を向けられない為に、マジョリティの枠になるべく自分を入れ込んで波風を立てないように生きよう」と考え振る舞うのは、差別の温存・追認なのだろうか。

政治やアカデミズムの場に籍が無く学も無い私は申し訳無いと思いつつも、社会の枠組みや価値観の変容まで考えられる余裕が無い。マクロな意味での社会より狭い日々暮らす"世間"において、どうひっそりと"疑いの目"を向けられず過ごせるかしか考えられないのです。なので、My Body My Choiceの考え方自体は素晴らしく思っても、それで私を取り巻く何かが楽になるわけではない。故に残念ながら綺麗事で理想論にしか思えず、より"現実"に即した言説を支持したくなるのです。

 

こんな狭い視野でしか捉えられない身で1/500の枠を埋めてしまったことを心底申し訳無いと思いますが、読む人が多いわけでもないので自分の記録用にこの駄文は残しておきます。

*1:この手のセミナー代も積み重なると馬鹿にならない。

*2:奇しくも今日は、書籍「TERFと呼ばれる私達」の発売日にして自民党杉並区議団討論会「つながりあえる杉並へ」第1回の開催日。

*3:とある性的マイノリティ当事者団体の元代表は、これを受けたかったのに親に阻まれ受けられなかったと嘆いていたが。