ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

希望を希望として持たせてよ

4月も終わり、これからの半年間はしばらくネクタイとおさらばできるのが嬉しい今日この頃。永遠におさらばできるわけではないので、束の間のことではあるけれど。

 

気付けば、東京レインボープライドで渋谷路を歩いてから1週間をとうに過ぎておりました。2017年から(コロナ禍の期間を除き)パレードに参加し、いつの間にやらHappyと口に出せなくなりつつも、旗を掲げ歩くことに何某かの意味があれと思い歩いてきました。ノンバイナリやトランスプライドのフラッグは他の皆様にお任せして、Aセクシュアルフラッグを振ったことで、沿道の誰かが一人でも「なんだこれは」と思ってくれれば儲けもの。

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さて、『何でヘイターの分際でパレードに入り込んでいやがる貴様は』とのツッコミは甘んじて受けるとして。性的マイノリティとして不自由無く生きることを求めながらもいわゆるヘイトとされる言説にも同調してしまった私の中でも、Happyと口に出していた頃からそうできなくなった今に至るまででは動機に多少の変遷があると気付きました。

当初、"敵情視察"の意味でGC界隈の主張を見に行ったのがきっかけ。融和路線を取ろうとする中でGC論客に非難されたくない気持ちと、自身の外貌ゆえに"パス"が見込めない現実を受け入れようとする動きと、身体男性としての"原罪"があるとの負い目があったと思います。そんな中で少しでも生きやすい世の中が来ないかとの期待は捨てずに現在に至るも、それが叶わないことへの絶望や「どうせ生きている間に差別は無くならないのだから社会と調和して生きるべき」との諦観を抱くに至りました。

一言で言うなら、「結局お前は男だ」に集約されるのでしょうか。そう言われるのがわかりきっているからそう思おうとして、それを補強する言説を探しては首を縦に振る行為は、止めたくてもなかなか止めることができません。麻薬と例えるのは言い得て妙だと思います。

 

しかし「どうせ差別は無くならない」と思う一方で、性的マイノリティや"典型的"でない生き方に対する偏見や中傷や茶化しや不利な取り扱いが無くなればどれだけ良いだろうか……との思いも捨てきれない私がいます。私が自身の性的マイノリティ性を隠さずに存在できて、周りに「so what?」と言えたなら。Happyだと春の渋谷に叫べたら。

相反する主張が同居しているような感覚。都合の良い奴だと言われればそれまでですが、本当は未来への希望を希望として素直に持ちたいと思っています。絶望に反転するのではなく。これも「誰々や何々のせいで絶望するんだ!」と責任転嫁しては始まらないので、結局は自分の周りの環境を少しずつ自分で切り拓いていくしか無いのでしょうが。それができないから今こんな状態なわけですけれど。受け入れられず傷つくことの怖さは当分克服できそうにないのでまだまだ暫くは"逆埋没"だとしても、他ならぬ自分自身が実際に失敗体験や成功体験を積まないと今の主義主張が動くことは無いのだろうと感じる次第。「二度と傷つきたくない」を根底に30年近くやっていると、これを剥がすのも大変だ。