ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

親愛と恋愛

お昼に見たツイートとそれについて私が思ったことを整理してみる。

 

発端はアセクシュアルについての当事者・非当事者のやり取りを表したと思しきツイートでした。

アセクシュアルは「何で(恋愛)しないの?」との問いに「逆に何でするの?」との質問を返す。それに対して「好きになるからする」と。更に別の相互さんが曰く「友達の最上級みたいな恋愛感情は世間では恋愛感情とは呼ばないのかも知れない」と。

 

私自身は恋愛感情って向けられたことも向けたことも記憶の限りでは無くって、特に自分からそれらしき感情を誰かに向けられないことについてはいっちょ前に悩みもしました。でも誰かを好きだとか大切だとか親しくなりたいだとか思う気持ちは確かにあって。それは恐らく友情とか親愛という言葉で括られるものだと思っていて。但しその延長線上、或いはそれとは別に恋愛や性交渉といった像を結ぶことができないといった具合。

でもこの「恋愛がわからない」今の私の状態、自身の感情が未分化なせいで恋愛感情が起こっていてもそれをそれとして認識できていないだけの可能性も0ではないと思うんです。小学校時代の不登校やいじめが尾を引いて、人間関係で傷付きたくなくて周囲と距離を詰めない生き方をしてきたので、「普通は」体験すべき感情を体験せず育っている節は大いにあるでしょうし。

なので、今でこそ性指向の面ではアロマンティックアセクシュアルを自認していますが、今後ノンセクシュアルやデミロマンティックに動くかも知れません。その可能性を否定せず、揺らぎに身を委ねていけたらいいなと思います。

 

但し、性交渉についてはやっぱり厳しいと感じています。生まれの性別として(あまり使いたくない言葉だけど…挿入の主体として)行為に及ぶ想像って思い起こす限りしたこと無くて。だからいわゆる「シコる」形での自慰も無いです。

私のこれは性別違和も絡んでいるのでいるのは承知ですが、だからと言って私がSRSをしたら(これも使いたくないけど…挿入の客体として)行為に及べるかというとそれも違う。親愛で以て着衣のまま触れ合う位なら無くはないですが、「そこまで」でも充分じゃないでしょうか。余談ですが、こんな考えなのでSRSできても造膣なしと思っています。ほら、ブログタイトルはこうすると語呂が良いから…。

 

そこで出てくるのが先のツイートの「友達の最上級」だと考えていて。これを書いた相互さんは恋愛感情にカテゴライズしていましたが、私にとってはこれを(自身の内にもある)親愛にカテゴライズするのがしっくりきました。知人→友人の先にある特に親密な友人関係として、より頻繁に或いは深いやり取りを交わす相手…というのはイメージがしやすいものでした。

また、それは必ずしもセクシュアルマイノリティ当事者だけとは限らないと思います。私達の場合、「深い」所の話はどうしても性自認が絡んでくるので敢えてこう書きました。非当事者でも立ち入った話ができる友人もいれば、当事者同士であっても敢えて互いに触れはせず別の話題に終始する友人もいます。性自認は違えど広く当事者の枠内の方が「前提」を共有して話しやすいというのはあるかも知れませんが、まぁどれが良い悪いという訳ではなく

 

これはあくまで私が考える親愛と恋愛の在り方であって、それは本来なら、例えば「世間」のような特定の軸のみでは規定できないはずのもの。でもまだまだ「世間」や「恋愛至上主義(対象の性別を問わずね)」といった軸が根強く幅をきかせていて、その中でだけ人の在り方を語ろうとするのは窮屈だなぁと感じた今日のお昼から今にかけてでした。