少し乗り遅れましたが、こちらの市議の発言について。差別的であると糾弾する識者や論客の声が目立ちますが、私はこれを始めて読んだ時に「そうだよね」「わかる」という感想がまず浮かびました。
当事者「なのに」というよりは、当事者「だからこそ」抱いた感覚だと自分では思っています。トランスに絞ってわかりやすく述べるなら、「だから埋没を志向するんだよ」と。埋没が不可能な私が言えることでは無いですが。
ただ、おそらく現役世代の我々が生きている内は、「自身がシスジェンダー・ヘテロセクシュアルではない」と表明すれば大小様々な差別や迫害を受ける可能性は非常に高い。ならば「"そう"であると見做されない」ように振る舞おう・見せようという方向に考えや行動が向かうのは、"処世術"としてやむを得ないのではないでしょうか。バレなければ何も言われない。うまく波風が立たないように生きられれば、自分のせいで『社会に混乱が起き』ずに済む。少なくとも自分の周りの世界は『*1美し』いままであれるのだから。
勿論、隠さずとも差別や迫害をされない社会を目指すこと自体は大切。理想としてはその通り。氏の発言や思想が容認されるべきではない。しかし、自分が生きている間にそれが達成される可能性を考えると、叶わない理想を追うよりせめて自分の暮らす環境内でなるべく自分の身を守ろうとするのは道理でありましょう。ただ、こうした"処世術"は、ともすると現状の差別の黙認・追認にもなりかねませんよね……。できれば社会の変化まで考えたいけれど、日々生きている中ではそんなことまで考えてはいられない。その匙加減が実に難しいところです。
*1:ここで件の市議が述べている"美しさ"というのは外見的な美醜というよりは、倫理的・社会的な"相応しさ"を表しているように思えます。