ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

棄教者のクリスマス

一度はキリスト教から離れ、積極的atheistとなった私。何を血迷ったのでしょうか、クリスマスイブ礼拝に参列しておりました。それも全く初めての教会の。

 

教会に行かなくなってからというもの、特にクリスマスの時期はどうしても教会のことを気にしてしまう年が続いてきました。どこかの教会に行こうかと迷いつつ朝を迎え、その時の候補は二つ。大学に隣接のカトリック教会か、かつて通っていたプロテスタント教会。前者は毎年ニュースになる程の人手であり、今年は教皇来日に湧いた年。参列できなくては元も子もない。後者は私から突然姿を消しておいて今更どの面下げて…という罪悪感もあり、且つ参列時に記名必須だし顔も割れている。説教も毎年外部からの招聘で、お世話になった牧師ではない。さてどうしたものかと考えていると、かつて通っていた教会が所属する地区に宣教師がいたことを思い出す。その方の名前で調べると、とある教会の牧師に着任したらしい。しかも開式に間に合うときた。これも何かのご縁…いやお導きと思い、そこの教会に足を運ぶこととしました。

 

幼稚園併設の教会、こぢんまりとしながりもアットホームな礼拝堂。どこか懐かしい気持ちになりつつ開式。讃美歌も実際に口に出して歌うのは本当に久し振り。記憶が蘇ります。

『救い主が生まれた』と題された説教。神が示されたような良き人になりたい/でありたいと願いつつも、『どうせ無理だ』と諦めて易きに流れてしまう我々。『人は素直に光に向かえない』宣教師の言葉が刺さります。自分の力だけを信じそれで以て良き存在になろうとするのではなく、自分のちっぽけさを認め謙虚になること。良く在ることへの諦めや冷笑ではなく、それに対する決定的な勝利としてのイエス

 

7年以上振りに教会での礼拝に参列し、メッセージを聴き。「目が開かれ」「目覚める」には至れないまでも、メッセージがかつてよりスッと自身の中に入っていく感覚がありました。神の御旨はわかりませんが、わからないなりにも「そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないか!?」と思えたのは、一つかつてと異なる点だったように思います。かつての私は頭でだけ聖書や神のメッセージを理解しようとして、現実の日々の生活や心・体にまで落とし込めてはいなかったのかも知れません。

この7年間には色々なことがありました。専攻のこと、仕事のこと、原家族とのこと、セクシュアリティのこと、音楽のこと…。まだ人生としては浅く薄いながらも、灰色だった時よりは多少の酸い甘いはあり。上述の気付きを得られただけでも前とは確かに違ったし、それもまた御意思…なのかも知れません。

 

高1〜M2まで教会に通い続け、自分だけながら家でもその風習に則り生活し、洗礼にはついぞ至れず離れたキリスト教。これからキリスト教とどう向き合って行くのかはまだ見えませんが、atheistの名乗りは一旦返上せねばならないかも知れません。少なくとも、「今後100%二度と関わらない」とは言えなくなってしまった心持ちである故に。

なので今宵は敢えてHappy Holidaysではなくこう言います。

 

Merry Christmas.🎄

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