ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

ダンスはやめられない

最近の体調はともかくとして、葬儀からも2週間が過ぎようやく落ち着いたと思った矢先。昨夜、実父から嫌なメールが届いてしまいました。

 

要は

  1. 私の誕生日である土曜日の夜に3人で会食をしたい
  2. 亡祖母の四十九日法要の都合を教えてほしい

という依頼で、それはつまり

  1. いい加減に顔を見せろ積もる話があるんだお前は社会人男子として”ちゃんと”やっているんだろうな?
  2. 候補日として提示しているからには、家族として行けないとは言わせないぞ?

というメッセージを言外に含んでいる訳で。仮に本人達にそのつもりが無くても、少なくとも私はこれまでの原家族との関わりからそう感じた訳で。いやぁ…行きたくありませんわ…。

 

多分、本人達はここまで私に対して威圧的なつもりは無いと思われます。原家族が固執するところの”普通”なだけで。「普通の家庭」が「普通にやること」、「常識としてやるべきこと」を当たり前のこととして私に求めているに過ぎないのだろうと。

原家族は恐らくその命が果てるまで、「普通の家庭」というダンスを踊り続けるのでしょう。一度始まった演目って、そう簡単に幕引きできません。舞台=実家から離れた私はそれが芝居=仮初めであると思いましたが、舞台上の2人はさてどうか。

…と、外から見ているようで、実は舞台から離れた私もまだ観客や劇場の外のモブにはなれずにいるのが現状。裏方?舞台装置?追加キャスト?何にせよ、私もまだ演目「普通の家庭」の一部。多少なりとも原家族の要望に応えてしまっている以上、演目を続かせることに加担しているという事実は拭えません。

 

仮に私が原家族に「会いたくない」「話したくない」と言ったり、唐突にカミングアウトをして*1実母をそのショックから自殺させるか実父から勘当を言い渡されるかでもすれば幕を引けるのでしょうが…。なんと、それをバッドエンドだと感じておりそうした幕引きを望みたがらない自分がいます。これはびっくり…。

物理的な距離が近いので、関わりを断とうにも向こうが追いかけてくる怖さというのは一因としてありそうですが。”バッドエンド”を望まないということは、私は未だに虚構ではないハッピーエンドを望んでいるのか…なんておめでたくて弱いんだ…。

 

でも、今の均衡を動かそうとするとどうしても破局的な展開しか想像できない所は、もう少し立ち止まって考える必要がありそう。取り敢えず「土曜日は不可」「法事で空けられるのは秋分の午前のみ」とは伝えたが、私が距離を置きたいと向こうに認識させるにはまだまだ長い時間がかかりそう…。

*1:両者ともガチでやりかねない。