ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

来なかった反抗期

さて2019年…2010年代が終わる大晦日。またも実家に帰る帰らないで色々あったのですが、1年前と同じようなことをやっていますね…。

 

VS実家

julia88h.hatenablog.com

 

昨日、案の定原家族からメールが来ました(原文ママ&パパ)。

実母『おはようございます。冷たい雨の30日〜、今日はコミケですか?パパのインフルエンザは完治しました。年末〜年始、帰って来れる?』

実父『今年も残すところ2日となり、何となく落ち着かない空気感。昨年の暮れから正月は婆ちゃんは入院、一人息子も帰って来ず、ママと淋しい思いをしました。今年は婆ちゃんが亡くなりそれ以上の淋しさを、特にママは感じている様子。その様な状況ですので、3人で新年を迎えることができるように、是非とも帰って下さい。

内容も案の定帰省の要請。実母はともかく実父。本人は当たり前のこととしてやっているのでしょうが、私の情に訴えかけて帰って来させようという手口。年末年始は家族3人で過ごすことが当たり前且つ私もそれを望んでいるはず、と思い込んでいるように見受けられます。『ママが淋しがるから帰って来てやって(大意)』の通り、私がどう感じるかは一切考慮されていません。何も告げずはぐらかしてきた私にも非はあるのですが。故に私の真意など向こうは知らなくて当然。

 

そんな中で一晩考えました。大晦日は第九の本番でどうせスーツだし髪を固めて帰ろうか、どっちみち長いと言われるからいっそどこかで1000円カットがあったら切ってしまってから帰ろうか、お風呂は"入り忘れて"寝落ちで回避すれば良い、髪・仕事・彼女・結婚・免許と繰り返される"常識"に基づいた"アドバイス"にも1日だけ耐えれば良い、私だけ我慢すれば丸く収まる、と…。

ですが、そうした後の自分のことを思うだけで耐えられませんでした。"常識"で以て諭されること、髪を切った姿…部屋で声を上げてしまう程に壊れそうになる。考えた末に、実父が1週間前にインフルエンザA型に罹患したのをいいことに年越しまで予定を入れたことにしようと結論付けました。

 

そして迎えた決戦の朝。本当は昨夜電話しようと思っていたのですが考えていたら遅くなってしまい…。

実家宛に電話して、出たのは実母。こちらも低い声で応じる。上記、インフルエンザの関係で難しいし無理はさせられないと判断し音楽仲間との予定を入れたので年越しは帰れない旨をまず伝える。実母は『え〜〜〜』と落胆し、『淋しい』とこぼす。早くも揺らぎそうになるが、心を強く持って実父へと替わる。実父にも同様に報告。『帰って来られないか』『そっちが優先なのか』と、いかにも作ったような元気の無い声。寝起きでもなくインフルエンザも『とっくに治ってる』そうだから、まぁ演技も込みなのでしょう。

続けて私から「ワシにもワシで予定はあるから、いつまでも毎年同じようにはいかんよ、すまんね」と謝罪する。事故事件病気に気を付けるようにと、両親からのいつものありふれた結びの言葉。電話を切り、安堵よりも先に来たのは後ろ髪を引かれる思い。これが今の私にできる精一杯でした。情けない。カムもしなければ距離を置く宣言すらできず、次の帰省日を明言こそしなかったもののやっていることは先送りばかり。2020年もこんななんでしょうか。少しは均衡を崩したいものです。性のことに限らず、報復への恐怖から本音をぶつけられずにここまで来てしまった。こちらが突きつけるよりは向こうが気付いてほしいのですが、難しい。取り敢えず、年越しのプランでも練りますか。

 

振り返り

そして2019年の振り返りへ。今年は「基盤準備」の年だったように思います。診断書が出てホルモン治療を本格的に開始。定期的な投与に加えて毎月の「職セク」会合への参加、髪は少しずつ切りながらも歴代最長。音楽活動の傍らで治療もうまくスケジュールに組み込めるようになり、移行を今まで以上に進めるための環境を整えた年でした。

来たる2020年。来年は覚悟をしたい。移行しながらも、本格的なカミングアウトは未だせず宙ぶらりんの状態でいる私。原家族、職場、楽団…それぞれとの関係が崩れるないし変質すること、争いが起こるであろうこと。特に原家族、私が我慢さえすればと思っていましたが、そうではなく自分を優先させること。それがどこまでできるか。私が心を鬼にできるか。親と金ではないけれど、「いつまでもあると思うな汝(な)が息子」とでも思わせねばなるまいて。

 

今年1年各所にてお世話になった皆様、ありがとうございました。喪中につき新年のご挨拶は失礼させて頂く形ですが、また来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

2010年代最後の日に、400台最後のブログ記事を寄せて。