ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

正月らしさ

1月2日の朝。初日の出用のアラーム設定変更を忘れてまた早朝に目が覚めてしまったので即二度寝。結果、1年以上ご無沙汰の9時間睡眠を成し遂げました。初詣は昨日したものの、朝食とシャワーを済ませてもなお、今日はこれからどうしようどうしよう……と言いようの無い焦燥感に駆られていました。その一因に思い至ったので述べてみる。

 

晦日のこと。これは実家時代からそうだったのですが、紅白歌合戦*1裏番組で面白そうなものがあっても視聴したくても、義務感で紅白を点けてしまうんですよね。勿論、紅白にも優れたシンガーや未来を見据えた演出が盛り込まれるのでそれはそれとして、義務感があるという点。昨年末も、ネット放送の番組をパソコンで流しながらNHKラジオがスマホで同時進行。音量を上げ下げし調節しながら視聴していました。

カウントダウンから三が日にかけても同様。ジルベスターコンサートよりも*2ゆく年くる年」。ウィーンフィルニューイヤーコンサート箱根駅伝を観ながら、*3おせち料理とあんぽ柿を食べ、お屠蘇も飲みつつなるべく実家でゆったり過ごす。これが、我が家で必ず行われるお正月でした。

……という、いわゆる「正月らしい」過ごし方を2018年末に帰らなくなってからはしておらず、そんな自分に罪悪感を抱いていることに気付いたのです。正月らしく過ごしていない罪悪感。いや、世間のもとい原家族の"普通"から外れることへの罪悪感とも言い換えられるかも知れません。実家時代だって、例えばチャンネルをジルベスターコンサートに合わせたいけれど我慢してゆく年くる年のまま(テレビを2画面にできても主音声にはできない)にしておくとか、初売りや自分だけ初詣に行きたいけれど家族で単独行動になってしまうから家にいるとか、毎年のことでした。

 

そりゃ正月の過ごし方なんて、個人/家庭/年によっても違うと頭ではわかっているつもり。なのに、実家に帰らなくなってからは特に、その"普通"をなぞれないことを申し訳無く思うのです。だから毎度実家に帰れない旨を連絡する際も、"当たり前"から外れる罪(sin)を確実に責められることがわかっているので、心が締め付けられます。実家への電話は、本当に緊張する行為だ。実家のような緊張感。

"普通"で(あろうとしても)あれないことの息苦しさは、両親と相対するその時だけでなく、この時期の行動様式にまで影響を与えていたとは。誰も何も言わないなら後ろめたく思わずに過ごせれば良いはずなのだけれど。この囚われは、手繰っていけば「伝統的家族」を重んじ家父長制を良しとする価値観に行き着くものであるように思えます。私自身は苦しいのにそこに阿る……あちらと無関係ではないのかも。

*1:同世代や同じ趣味の友人はそちらを見ていることが多かった。

*2:昔から一番好きなテレビ番組ではあるのですが。

*3:その他ジャンルの料理は三が日が終わるまで口にしない。