ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

道中にて思う

耳鼻科からジェンクリをハシゴする道中、ルートの都合で母校の前を久々に通りまして。いやぁ懐かしかったですね。時間も用も無かったのでただ通り過ぎるだけでしたが。思い返すと、母校には校風として寛容さやインクルーシブな面が当時からあったような気がします。「守られている感覚」とでも言うんでしょうか。宗教については巷であれこれ言われていますが、ミッションスクールという面もある気がしないでもない。

それを思うと、「必要な区別」だの「人権と人権の対立と優先順位」だの言っている自分はなんて小さいんだと泣けてすらくる。守られる存在がいても、そこから溢れる存在を前提としたこうした物言い。『全て重荷を負うている者は〜』、『隣人を〜』との御言葉をいざ前にすると、私は一体何の為に上述の思想に同調してきたのかとわからなくなりそうです。「誰もが救われ守られる社会など来ない!」「だから今の枠組みの中で粛々と生きるしか無いんだ!」と考えるのは現実主義的ではあると思います。しかし、守られず救われない存在がいるままの現実に立脚することは、果たして是なのでしょうか。

 

だからとて、そう簡単に理想主義者に転じられもしない。現実で生きるに当たって、一方に偏りがちな所は自制していきたいのですが……エコーチェンバーの中では何もかもが正しいものになりますから。