ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

「抹消された『トランスジェンダー問題』~邦訳出版記念イベント~」

【WEZZY MEETING #25】高井ゆと里×周司あきら「抹消された『トランスジェンダー問題』~邦訳出版記念イベント~」

 

本日視聴したこちらの鼎談。群馬大学の高井ゆと里准教授による日本語訳版が出版されたばかりの「トランスジェンダー問題」に関する内容で、WEZZYでは確か2月以来のお二人ということもあり期待に胸を膨らませておりました。Amazonで予約注文は既にしていて、今見たら10/13までには届く見込みのようです。Shon Fayeによる原版の存在は知っていて、取り寄せようかと思ったことも何度かありましたが、学の無い私にはやっぱり日本語となるのを待つしか無く。だから、此度こうして日本語で読めるようになって本当にありがたいと思います。しかし、前半の内容紹介を聴く限りではミクロからマクロまで様々な"問題"が絡み合っている*1よう。いかんせん「反TRA」「他称TERF」として割とシンプルめな構造の言説に浸かってきたものだから、果たして私はこれを"読む"ことができるのかと心配です。

www.akashi.co.jp

 

前置きおしまい。視聴しての感想に入ります。

まず何より『トランスジェンダーは希望を持つことができる』という言葉。これを耳にした瞬間、どっと目頭が熱くなりました。何なら執筆中のこの瞬間も。私含め、一人ひとり違っていながらもどこかで似たような思いや経験を経ている(広義の)トランス当事者を、とても強くempowerする言葉だと感じます。ですが、持つことができると言うのなら、本当に持っても良いんでしょうか。私のいる世界や私の見る視点からは、それらを打ち砕かれる未来しかまだ想像ができません。それで何某かの希望を抱ける程に楽観的ではない。しかし、*2じゃあ一生希望を持たずに過ごして老いて死んでいくのかと言うと、それも少し違う気がしています。もし心からそれでいいなら、今こうして生を続ける理由が無いわけですし。

ノンバイナリに関して周司あきら氏が『NBとして最初から生きさせられる人はいな』くて『内面的な主張としてしか表れないから軽んじられる』と述べていましたが、私はその『軽んじられる』ということが恐ろしくてなりません。「男ではない」というgender identityや、身体に医療の手を加えてはいるけれども男性としてしか見なされない外見、振る舞いや性表現の面でバイナリなトランスほど振り切れないことへの引け目。なんならMtFの3文字ですら、私にとっては「なんかしっくり来ないけれど便宜上そう言っておくもの」でした。このような自身の状態を私はよく性的マイノリティとしての「"説得力"が無い」と形容しますが、果たして"説得力"が無ければ、目に見えて"そう"でなければ認められるべきではないのでしょうか。

Fayeはトランスの可視化を進めることには否定的であるが、NBは可視性の政治からも追い出されていると高井准教授は仰っていました。私は治療開始から2年くらいの間、私服では今よりもフェミニンな装いを選びメイクも色々と凝っていました。しかし、結果として今はこうした"いかにも"な風体では無くなっています。これは路線を模索していたのもありますが、identityがバイナリではないながらも"いかにも"であれば*3性的マイノリティであると見なされやすくなるから……という打算が無かったと言えば嘘になります。しかし、"生存戦略"として(便宜的に)可視的であろうと努めることは、本人のidentityと他者からの認識との乖離に繋がらないだろうかとの危惧があります。もちろん不可視であろうとすることにも同様の懸念はあるし、「自分を取り繕う」行為がなされている・そう強いられている時点で当事者の心は守られていないと私は思います。

 

また、終盤に日本のトランス当事者が置かれた状況について高井准教授が述べていた中での『全ての人がgender identityをすんなり受けてくれるとは限らない』から『一人ひとり心細い思いをしながら相談して生きている』との言葉は、実感として深く同意できました。この人になら話せるか、秘密を守ってくれるか……と、日々私が考えていることばかりで、画面の向こうで「本当にそう!そう!」と頷きながら聴いていました。自分のgender identityや性表現が尊重されるかどうかは、まさしく文字通り死活問題。個々人が属する種々のコミュニティや行きずりの場において、その見極めは毎回・時に長い時間をかけて行う必要があると思います。少なくとも私はそう感じながら過ごしています。それは、gender identityを表明することで他者から攻撃されたり軽んじられたりする脅威から精神的・社会的・経済的な健康を守る為に。一言で言うなら、生きていてなかなか安心できないんですね。

今日は国際カミングアウトデー。だからって私は決してカミングアウトを称揚する日ではないと思っているし、する/しないはそれぞれの状況次第。でも、自分が自分であると表明することで/或いは表明をしなくても、安心して生きていける世の中が来てほしい。「結局は今の枠内で生きるしか無い」と保守的な思想に同調したくなる毎日ではあるのだけれど、できることなら楽になりたいと思うのです。

 

余談。「延長戦」で言及のあった、アライの定型句としての「あなたはあなたのままでいいんだよ」という言葉について。支持的な言葉ではあるけれど、「まま」じゃないし「まま」じゃ駄目なんですよ。身体に医療の手を入れている身としては殊に、「そのまま」ということはあり得ない。私にとってありのままで良いと言われることは、男の身体のまま一切の性別移行に関わる医療を受けずに過ごしても良い……と言われることとも捉えられる。程度はあれど否応なしに変化していく当事者本人に対して、受容しているようで本人が変化しない"ことにしようとする"アライという構図が生まれることもあり得るのではと思います。アライの側に罪は無いのだけれど、何が「私のまま」「ありのまま」であるかの認識に当事者⇔非当事者間で埋めようの無いズレは存在していると考えることが多いかもしれません。

 

此度は空腹な帰宅後に食事の仕込みを忘れて聴き入るくらい、あっという間の90分でした。手元に届いた暁には、じっくりと読ませて頂きます。

*1:「~よう」と他人事めいた書き方なのは、あくまで本記事執筆時点では未読のこの本に対する印象への言及だから。自分達が絡む"問題"を他人事とは見なしていないつもりです。

*2:それでもいいか、と思うこともままありますが。

*3:それが安全であるコミュニティでは、という条件付きで。