ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

保守とは最も縁遠い

と、学生時代からずっと思ってきました。現政権与党にはティーンエイジャーの頃から反発し、当時は言うのも憚られるような極左的思想を抱いていた私。ですが、どうもそうではないのかもしれません。そう感じたきっかけは、とあるSNSの投稿(公開投稿につき引用失礼します)。

根源的なことを指摘しちゃうけど、「生物には雄と雌しかいない」「特定の性器があったら男性/女性」というテーゼを何の疑いもなく受け入れてしまう時点で保守的な性向の人間だと自覚はした方が良いと思う。それだけで差別主義者になるわけではないが。

といった内容のもの。

自身か治療を受けており実際に当事者と顔を合わせた経験も数ありながら、なおそう考える本質主義の私がいるのです。理由としては単純明快、「自分が身体男性であることは自分が一番よくわかっている」から。当の私はいわゆる「アリナシ」の状態で、トランジションはプロセスだという認識はある。他の当事者も各々が各々のフェイズにあり、速度にも差がある。それぞれが持つ時計の1秒1秒が、世界の共通規格としての1秒ではなく長かったり短かったりすることもわかる。

それでもなお、人間はオスとメスでありpenisとvagina。しかしこれを心から信じているのかと問われると、信念というよりは拠るべき「規範」という意識の方がやや強い気がしています。

 

上掲とは別の方の投稿に曰く、

「自分をバイナリーな存在と認識している」≠「人間は須くバイナリーな存在であると思っている」

わざとなのか?と思うけどトランスヘイターはここら辺ごっちゃにしてるよな。自分を男/女と認識していることと人間はみんな男/女に分けられると考えているかどうかは1ミリも関係ないだろ。

と。私は「自分をノンバイナリな存在と認識しています」。その上で、『人間は須くバイナリー』がどう両立しているのか。有り体に言ってしまえば、二元論的でいた方が楽だから……でしょうか。

「自分はノンバイナリ」です。しかし現在の日本では「人間は須くバイナリであれ/に違いないとの規範が優勢」です。「世間で優勢な規範に従って生きる方がトラブルも少ない」のですから、その規範を自身の思想信条として生きるという点で両立しうると考えます。楽というのは私がよく述べているところの「波風を立てない」という意味であり、対世間という観点から見ればここに全振りするのは相当に「楽」なのです。同調していればこちらに矛先は向かないのだから。

自分自身のジェンダーアイデンティティと世間の規範は一見矛盾しているようで、両立というよりは併存しているだけのもののスイッチを切り替えているのかもしれない。ただ不思議なことに、こういうのは思い込み続けていれば自分の本当の心からの信念であると感じるようになってくるものなんですよね。セルフコンヴァージョンセラピーはちょっと言い過ぎでしょうが、今は割と「書き換わってきた」感覚があります。

 

思えば昔から、私にとって決まりは守るものであり皆が守るべき秩序であり世界の真理あり従わない者は敵でした。今度こそ『おかしい』『普通じゃない』と言われない為に。目立たずに目立たずに。取り立てて記憶にも残らないただの「普通の人」に。そうなれるなら何だってしてやりたいのですがねぇ。

いくらリベラル思想に同意できる所があろうと、根底がこれだとやはり保守ということになるのでしょう。書いていて悔しさと怒りで震えそうなほどには、認めたくないですが。