ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

今日だからこそのI am here

本日昼はまたも新百合ヶ丘へ。川崎市麻生区の市民自主学級にて映画「I am here」を上映するとのことで、2年ぶり?に観覧してきました。既に観たことのある作品ではありますが、私に"思想的変遷"があったことや来週にトランスマーチを控えていることから、改めて目を通しておこうと思った次第。

 

『ここに生きている』当事者の姿を映しつつも、特例法の『厳し過ぎる』とされる要件に主な焦点が当てられている本作。しかし私は、どうにもその要件を厳しいものとは思えずいます。それは視聴後も変わりません。未婚については同性婚が成立すれば早々に撤廃されてほしいものですが、子無し・手術の両要件については堅持の立場を取らせてください。私自身、性器への嫌悪が主体にあるから……というのがそもそも前提にあり、見方によっては排除的に思われるかもしれませんが。出生時の性別をまさに象徴するのが性器であって、それを維持しておいて・それを使って交わって子を拵えまでして、だのに反対の性別として遇せよ……で、自分の周囲や世間から認められるとお思いですか?と。反対の性別としての"説得力"を最も損なう点ではありませんか?と。こう私は思うのです。

 

おそらく、私のこの考え方は現代日本に脈々と息づく男女二元論や家父長制に根ざしたもの。「男とは、女とは、家族とは……」と様々の規範に雁字搦めに見えるでしょう。勿論私自身、こうした規範によって苦しい思いをしてきており排したいと強く願っています。また、自分自身がトランス当事者としての"説得力"に欠けているという現状も大いに影響しているはず。しかし同時に、我々はこうした規範の渦巻く中で未だ生きていかねばならず、理想的な法体系や風潮が成立していない以上は既存の枠組みに合わせて現実の生活を送る必要があります。少なくとも私はそう考えます。

ただ、私がこのように"現実的な"意見を表明することで、既存の規範を更に強化してしまわないかとの懸念もまた持っています。目の前にある差別から逃れようとする行為が、結局は生き方の選択肢を増やさず長期的に見て差別を温存してしまう可能性は大いにあるかと。だからといって職場や学校や家族や友人等とうまくやっていく為にはある程度合わせることは事実求められているわけで……の無限ループなのが今の私の考えです。

 

理想は唱えねば変わらない。しかし今の現実は確実に存在する。このループから抜け出すには、やはりまず生き方の選択肢を増やすこと、いや既にそれらが存在していると示すこと、かつそれらが性的マイノリティではない人々にとって"安全"であると認められることが必要ではないでしょうか。この匙加減、実に難しいと感じる日々です。