ノンバイナリをオープンにされているとある漫画家さんのSNSでの投稿を見て思ったこと。手術をしたからノンバイナリの身体になるわけではなく、今の身体もまたノンバイナリの身体である……といった旨の内容が書かれてありました。そしてそれに反対するはよく見かける論客の面々。日常茶飯事にしてはいけないけれど、いつだってどこだって見られてしまう光景。
私はこの投稿を見てハッとさせられました。その人の*1身体の状態がどうあれノンバイナリとしてのジェンダーアイデンティティを持つなら、それは確かにノンバイナリの身体と言えるのではないか、と。出生時の性別として具わった身体機能への嫌悪が強い当事者として私は、「どう男性性を削ぐか」ということをずっと中心に考えてきました。しかし、「睾丸摘出をしたから」ノンバイナリの身体に「なった」のかと訊かれたら、それはちょっと意味合いが違ってくるとは思います。手術の前後で私のジェンダーアイデンティティがスイッチの如く切り替わったわけでもないし。人生の途中のどこかで性別に関わる医療の手が入るにせよ入らないにせよ、*2ノンバイナリとしてのその人は一貫して生きているわけで。それは外から侵されるべきものではないのでしょう。
しかしその一方で、「現実問題」としてはどうかという問題ものしかかるわけで。My body, my choiceと幾ら声高に叫ぼうとも、今の日本の「世間」の反応としては「○○を切除した■性」以上にはなり得ないとも思うのです。自分の中の折り合いとして医療の手を借りるのはそれこそ自分の中で完結されること。ただそのアイデンティティを他者に、「世間」にも*3押し通せるほどに、この社会が成熟してはいない……というのは誠に残念なことです。
大多数の認識としてはそうであろうし、私自身が本質主義・現実主義的でもあるためこのように述べたわけですが、社会の成熟が見込めない以上は今最も安全で居られるように考え振る舞うのがベターかとやっぱり私は思います。今生きている人間が全員入れ替わる程に時が経って、そこで日本が存続していたとしてようやく私達がそうあってほしいと希うような社会が訪れる……くらいではないでしょうか。