ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

黙り通すことに耐えられるという特権、或いは自主的な透明化

今日はトランスジェンダー追悼の日。そして昨日は本来ならばトランスマーチが行われる筈だった日。元々マーチを見に行くつもりではあったので、 #1119新宿トランスライツ のデモを見に行きました。少し離れた場所でも同種のデモがあり、お世話になったあの方が駆け回るお姿も見かけた。かたや毅然とスタンディング、かたやカウンター連中と一触即発。活動の毛色こそ違えど、同じ目標のあるデモが偶然にも隣り合った珍しい光景を目にすることができました。また、プラカードやフラッグはトランスプライドカラーだけかと思いきや、ノンバイナリカラーのフラッグを掲げてくださった方もおりとても嬉しい気持ちになりました。私はトランスカラーのネクタイを身に着けていましたが、NBカラーネクタイにしても良かったかもしれない。

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そしてその夜、SNSにて見かけた某弁護士の投稿。曰く、トランスと雖も皆が同質ではなく「『個』による違い」はある……と。それはおそらく「そうでない人」と同様に「私達」にも一個人として生活者として、6色では括れないそれぞれの色、持ち札、関係性があるということなのだろうと私は感じました。何なら私自身、(広義の)当事者としては典型的な生育歴を辿ってはいないし。

一方で、個別に複雑なことを考えていったらキリが無いので一律で括るべき……とのジェンダークリティカル論客に多い主張もわからなくはない。それだと現実的な検討はできないのではなかろうか。一律で括る根拠として、選びに選び抜いた悪目立ちするn=1を「現実」としてぶつけるのは些か恣意的に思えます。しかしそうした悪目立ちな不埒者はどうしても目につくし、大声で批判できるほど私はクリーンではないので、警戒心を持ち一律に括りたがる人の気持ちも蔑ろにはできないと考えます。だからとて、「『個』による違い」を持つ当事者が各々の環境下でサバイブする試みもまた、毀損されるべきではないでしょう。

 

ただ「そうは言っても」と、我々を括るべきだと結論づけるのが「世間」なのだと私は考えています。この「そうは言っても」によって、理想とは程遠い価値観や規範が当分は主流であろうという事実(或いはそれにほど近い絶望的観測)に直面していき、「現実」主義的な思考になっていった私がいます。

ノンバイナリ、しかし体格や顔貌といった外見や声が非常に男性的なため、私は「言わなきゃ誰にもわからない気付かれない」という状態に在る。だからこそ、この世間の中で黙ってさえいれば、直接的な被害は一切受けることが無いのです。寧ろ、(実際にそうでなくても)加害をしてくるに違いない者として見られ続けてきました。私の持つこうした種々の条件故に、直接的なトランス/ノンバイナリ差別には遭わず、言ってしまえば高みの見物をやれている状況なわけです。マイクロアグレッション?あぁ、ゼロとは言いませんが、それに対する世間の回答は「甘えるな」の一択でしょう。ならば甘えず生きましょうぞ。

 

と、こうして「私は関係無い」と他人のフリをしながら日々「逆埋没」で生きているのですが、これは私が持つ特権なのかもしれませんね。「性的マイノリティであることやそれにより直面する困難を、黙り通すことに耐えられる」という。「個」としての自身が生まれ持った条件や置かれた状況から私が選択した結果なので、下手に真似をしていいものではありません。

デモを見に行くなどしてはいるものの、どうにも没入できないのはこうした点も理由の一つと言えそうです。