ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

カランコエの花

映画監督・中川駿氏による短編映画「カランコエの花」。これを知ったのは確か情報サイトLGBTメディア|Rainbow Lifeさんの記事だったと思います。

 

あらすじはこんな感じ(公式サイトより引用)。

「うちのクラスにもいるんじゃないか?」

とある高校2年生のクラス。ある日唐突に『LGBTについて』の授業が行われた 。
しかし他のクラスではその授業は行われておらず、 生徒たちに疑念が生じる。
「うちのクラスにLGBTの人がいるんじゃないか?」生徒らの日常に波紋が広がっていき…
思春期ならではの心の葛藤が 起こした行動とは…?

 

この映画の上映会を明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンターと一般社団法人fairが開催するということで6月末に飛んで行き、7月の新宿での上映には都合が付きませんでしたが8月のアップリンク渋谷で二度目の鑑賞が叶いました。

 

さてこの映画、ネタバレ防止の為に詳しくは割愛しますが、LGBTの周囲の人々にスポットを当てた作品。「授業」をきっかけに起こる反応は、学齢期当時はっきりした自認は無くとも同性愛を疑われたり既に身体的性別への違和感を抱えていた私にはリアルに映りました。監督の意向で、台詞がはっきり決まった台本があったのは養護教諭役のみ。他のキャストはコアな部分のみ指示されほぼアドリブ。それもあってリアルさがうまく出たのでしょう。

 

この映画を通して驚きそして打ちひしがれたのは、「悪者らしい悪者がいないこと」「善意は時に裏目に出て/無知はそれを想像できないが故に、人を傷つけてしまうというやるせなさ」に尽きます。当事者という”色眼鏡”で見ると悪者に見えたり反感を覚える人物もいるのですが、彼彼女らとて純粋悪に非ず。寧ろ悪ではないからこそ起こり得たことだしそれ故に哀しく辛い物語です。…いや、物語というよりは「今も何処かで誰かが感じているリアル」と表現した方が正しいかも知れません。

 

明治大学で鑑賞した際はトークショーがあり、そのテーマは「周囲にできること」でしたが、「できること」と同時に「できないこと」「やらなくてもいいこと」も考えていきたいと思う映画です。

こう思うのは、監督が敢えて綿密な台本を組まなかったり当事者への取材を行わなかったりと(異性愛でわざわざ取材はしないのに取材するのは差別では、との理由)、監督自身がとても誠実に「できること」「できないこと」「やらなくてもいいこと」を見極めて作品を作っている姿勢に感銘を受けたからです。

 

本人に働きかける形で何をやろうかと考えることをダメとは言わないけれど、自身に知識をインプットしたり異なる属性を持つ人への想像力を研ぎ澄ましたり、そういう形で「できること」だってあるはず。私としては、無理に「わかるー」「理解があるから」などと介入してきて欲しくはないし、「へぇ、そうなんだ。ところで…(別の話題)」程度で済ませて欲しい。人間、相手の何もかもをわかるなんてできないのだから。

 

上映スケジュールは映画『カランコエの花』公式サイト参照。8/23現在DVD化の予定は無いそうなので劇場へ急げ!