ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

力仕事

私の職場は健診機関なので、日々膨大な量の紙を扱っています。問診票とか報告書とかね。なので、それらを受け取ったり保存期間が過ぎたら廃棄したりするのも、お仕事の一つです。

 

つまりはそう、力仕事があります。そしてご想像に難くないと思いますが、弊社では力仕事=男性職員の役割として振られています。仕事だからまぁ私もやりますがーーーというか今日やって身体バキバキな訳なんですが…話逸れるけれど力仕事なのにスーツってのも変な話ですよねーーーやっぱり性別だけを理由に割り当てられることの違和感って拭えませんよね。

 

世の多数派に則って仕事が割り振られること自体はわからなくはないですが、「男性/女性だからこの仕事を」とそれを思考停止でやっていないか?という点は立ち止まって考えても良いと思うのです。

 

弊社で言うと、給湯室の掃除とゴミ捨ては永らく私のいる課の女性職員の役割として割り振られていました(その分の手当が支払われるとかは勿論無い)。先輩方の証言によると、恐らくは女性であるという理由だけで。私達の課だけというのは、他課は男性ばかりだったり女性がいても外勤部隊故に当番に入れなかったりしたから。

しかし今夏、私達の課の女性職員が中心となり負担である旨を訴え、上記営繕活動は全男女職員で行うこととなりました(予定が合わなければ各自調整で)。ここで終われば大きな一歩と思われそうですが、「水まわりは女性、ゴミ捨ては男性」という性別役割分業自体は残ってしまったので、私から見たらただ仕事の負担が他課に分散されただけの小さな一歩。少なくとも私達の課としては男女分けなくてもいいというスタンスで意見を上げたのですが、上層部ではそこまで揉まれなかったようで…。

 

身体的性別による体格差や家事の教わり方の差(≒育つ中で刷り込まれる性別役割分業意識。家事への習熟度も含む)に凡その傾向があるのは現実確かにそうです。でもそこで留まっていては苦しい人は確かに存在する。私に限らず。苦しくはなくても、その人の得意不得意とずれていることくらいならもっとあるでしょう。

適材適所」と各所で叫ばれはしますが、例えば性別のような大枠だけでなく、より個々人を見た上でその言葉が使われると良いなと感じます。

 

週末に今日の疲れは引きずりたくないな。凝りを取りたい。