ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

男性の仕事・女性の仕事

弊社のお話。

業務の中で発生する紙類の運搬作業という「男性の仕事」があるのですが、この度管理職に昇格した男性が抜けることに。男性の人員が少なくなり当番の見直しが図られた結果、今月下旬からは男女問わずヒラ全員で回していくと決定しました。この報せを聞いた私は「担当業務の一つがようやく性別役割分業から解放される!」と思いましたが、一方でそう喜んでばかりもいられないなぁと感じています。

 

今回の担当者変更は多くある業務の内のごく一部に過ぎません。昇格に伴う人員不足が事の発端でしたが、裏を返せば、昇格が無ければ当たり前のこととして性別役割分業が続いていたとも言えます。見直そうという動きすら起きなかったんだろうなと思うと、絶望すら覚えてしまいます(私は新人故に、見直しを働き掛ける力も度胸もありません…)。

 

ある業務が性別で割り振られていたとして、それに不自由しない人にとってはそのままが楽なんですよね。しかしそうではない人もいるのです。前者は「男性の仕事」「女性の仕事」とされるものが何故性別で分けられるかの必然性を問う必要が無いし、所与の状況を疑うという考えがまず起きない。役割を振る側でさえも、特に深く考えず漠然としたイメージで振っている可能性がある。「男性は力があるから運搬」とか「女性は家事で水まわりの扱いに長けているから給湯室掃除」とか。

後者の一人として、このような「雑な」分け方をされるとまぁ居心地が悪いんですね。業務単体として望まない性別の方に割り振られていることもそうですが、それ以前に男女二元論で分けられていることが。以下は私個人の意見ですが、たとえ現職で在職トランスできたとしても、「女性の仕事」に割り振られたら居心地の悪さはさして変わらないでしょうね。

 

組織を運営していくに当たって、個々人を見て「適材適所」の配置をするよりもわかりやすい属性で振り分けた方が楽なのはわからなくもない。しかし、運営上の楽さが全員に幸福をもたらしているかというと、必ずしもイコールではないと思うのです。性別の問題以外にも、それぞれが持つ能力の問題として向かない人・居心地が悪い人なんてもっとたくさんいるでしょうし。上述の例で言うなら、「痩せていて非力な男性」は運搬に、「実家暮らしで家事は親に任せきりだった女性」は給湯室掃除には向きませんよね。

 

男女二元論で組織が動いているというのは、該当する業務一つひとつの問題というよりは組織風土の問題だと思います。それに疑いを持たない個々人の集合が組織を形成しているので。つまるところ弊社は割と古い風土な訳で、それを崩しにかかるのは一筋縄ではいかないなぁと思います。せめて「同志」が社内に一人でも居れば違うのですが、居たとしてここの空気じゃそうも言えないよねぇ。

うーん、ハードモード。