ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

大学時代 生育歴編

やってきました大学編。全部書いていたら5000字近いことになったので流石に下書きからは色々削る。学生のレポートか。まずは性別云々とは関係無い所から。

今思い返すと、最も灰色だった4年間。本気でやりたいとは思いきれない専攻、原家族の求めに全ては応えられない罪悪感、初の親族との死別(1年次冬に父方祖父、3年次秋に父方祖母)、コミュニケーション能力の無い自身への不全感、本物に及ばない程度の性別への違和感。これら思いに支配されながら、表向きには大人しく真面目な大学生活を送った。

 

都内では難関とされるミッション系私大の心理学科へ補欠合格で進学。高2時に実母が持ってきたオープンキャンパス情報にある大学の中で、最も心理学を活かした職への進路実績が良い大学であった。心理学を専攻したいとの考えは実母の勧めが発端だったので、自分としても大学を選ぶ決め手は実績と偏差値くらいしか無かった。

学科は1学年50人ほどで男女比は男1:女4。授業の出席は非常に厳しく、提出課題も4年間を通して多かった。心理士を意識していたこともあり、3年次に就活はせず大学院進学を念頭に過ごした。しかし周りが就活に勤しむ中、「自分はあちら側に行かなくてもいいのだろうか」という漠然とした焦りは常にあった。ここで方向転換していたらどうなっていただろう。情熱もあまり無い中で漫然とお勉強だけは続け、4年次の秋に関東の某国公立大の院への合格が決まったが、受験勉強は継続し2月に合格した自校の院へ進学。

初めてアルバイトをしたのも大学に入ってから。個別指導塾・コンビニ・プロオーケストラの搬入搬出・入試監督等を歴任。部活は管弦楽部に所属し引き続きトロンボーンを担当。音楽系団体の中では最も拘束時間が多く、全てを捧げる勢いで臨まないと置いて行かれるような意識の高い部活であった(事実、『学業に支障をきたしてしまった』先輩もいた)。同期・先輩・後輩とは気の置けない関係を築き、卒業した現在でも同じ楽団で交流のある者は多い。

 

進学先が都内ということもあり、住まいは実家暮らしのまま。原家族との関係については、離婚の危機があった他、期待と干渉が高校時代よりも強まっていった。特に実母は、私にコメンテーターないしカウンセラー的な役割を求めてくることが増えた。

まずは離婚の危機について。1年次冬、法事で実父実家に向かう際、中継地点の宿で実父の不倫が発覚。出張先で出会った中国人女性と密にやり取りをしていたらしく、実母はどうやってかそれを掴んでいたよう。夕食時より険悪なムードになり、実父が食事していた店の机を蹴り上げてから争いが顕在化(この時点で実母から耳打ちで告げられ、私は文字通り初耳だった)。宿に戻り実母が怒りに声を震わせ『別れましょう』と切り出してから掴み合いの乱闘に。私は号泣してみせながら割って入るも、家族が離れ離れになってしまうことそれ自体への悲しみは不思議と湧かなかった。仲裁した理由は「実母に引き取られる可能性が高いが、金銭面で住居は質素になるし大学も続けられなくなるだろうから」「仮に続けられても名字が変わることで少なからず好奇の目を向けられ詮索されるのが嫌だから、何より自身が受け入れられないと思ったから(当時はどこからか内面化していた、離婚は”かわいそう"なものだという信念も影響していただろう)」という打算的なもの。故に、計算の上で必要以上に演技的に泣いていたところもあった。自身の今の生活が壊れる、それを阻止したい一心であったと言える。ここまでして変化を嫌う辺り、ASD的特徴が現れているとも言えそう。

 

また、実母からの期待と干渉はより顕著になった。例えば、食卓のテレビを見て気になったことに対して頻繁に「これは心理学的にどうなの?」とのコメントを求めてくるようになった。実母はパート先での自身の人間関係や介護していた母方祖母との喧嘩に関しても『こういう時どうすればいい?』と相談してくるようになった。これらについて、私は勿論わからないことがあったが、そう言うと必ず実母は『教えて/助けてくれないの~』と言いたげな嫌な顔をした(或いは実際に言った)。

進路や生活スタイルに関しても、部活や趣味にばかりうつつを抜かさないこと・単位を落とさないこと・短期でもいいので留学すること・修士課程に進むなら博士課程にも進むこと・あまり痩せ過ぎずぽっちゃりしていること・もっと周りと”ちゃんとコミュニケーションを取る”こと・”積極的になって”早く恋愛して彼女を作ること・運転免許を取ることを求めてきた。会話やテレビでこうした話題が出てくる度にこれらをするように言ってきた(後ろ二つは実父も)

 

実母『やらないと将来困るよ

実父『お前はこれからの人なんだから』

 

が原家族の口癖だった。具体的にどう困るか説明することは無く、抽象的な警告ばかりであったと思う。当時の私は無学で世間知らずで、頭も回らず今から比べると脳の半分以上は靄というかアクセス制限がかかっているような状態だった。精神科に行ったとしたら診断の一つでもついたのではなかろうか。

そんなだから日々mustな事項をこなすのが精一杯で、するつもりの無いこと(留学・博士課程・恋愛・免許)も含めて全てには応えられない自分は不出来であると思っていた。単位は1つも落とさない等、応えられたものもあるにはあったが、それは当たり前である+αができないことも不甲斐なかった。

 

そんな、灰色の大学生活。性別についてもようやっと思い悩みだしたが、それは追って書く。