ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

藪蛇

余計なことなんてしない方がいいです、本当に。

昨夜スマホを見ていたら、たまたま実父生地近辺のニュースを発見。それがトリガーとなり、あろうことか誕生日に来たメールに返信をしてしまいました。「当日に返さねばと思いつつも敢えて返さずスルーできたし、この話題なら当たり障り無さそうだし、そろそろ返しておかないと追撃も怖い」そう思ったのが間違いでした。返すまいというその時の思いを貫徹しておけば良かったものを。

 

実父からの返事は即刻来まして、

『元気な様子、安心しました。文字(メール)から受けるもの、声(☏ )から受けるものは、それなりに気持ち、思い・・・を伝え・感じることができますが、やはり対面して顔・目を見ながらのコミュニケーションにはかないません。是非に機会を作って3人で食事をしながら話をしょうね。』

とありました(原文パパ)。

見た瞬間に募る後悔。私が拾ってきたニュースには指一本も触れず、出してきたのは会食の提案。脈拍が上がり、本能がまずいと悟りました。会食。冠婚葬祭以外に原家族と会う機会を作らされる。見た目、仕事、将来。あちらにとっては団欒の場でも、こちらにとっては処刑の場です。

この感染拡大のさ中に……と思うのは私だけ。『家族だから』関係無いし、私だってオーケストラの練習という人が集まる場に行っている以上は大きなことを言えない。でも、感染リスクは断る上では最大の理由になる。上記メールには返信しないと誓ったが、もし向こうから一方的に日時を伝えられたら、存分に振りかざして何としても回避したいと思う。

 

原家族と顔を合わせるに当たり何らかの「実績」があれば、多少は説得材料になるのかも知れない。例えば職場カム済とかフルタイム移行済とか。けれども今の私にはそれがありません(診断書は誰でも取れる紙切れなのでノーカン)。ただ「実家を出たら急に訳のわからないことをしだした息子」なだけ。RLE、パス度、身体治療……要は「殴れる」武器が何一つ無い状況。Lv.1の丸腰でラスボスには挑まないでしょう?という話で。

叶わないとほぼわかっている上で何もかも理解して欲しいと願うのは、やはり無理なのだろうか。自分が何もしないのに向こうに察して変わってもらいたいと考えるのは傲慢なのでしょう。関わりを絶ちたいのに絶てず望みを捨てきれない。このアンビバレントな状態に在って、自身の原家族への依存の強さも浮き彫りになります。重い重い宿題ができてしまいましたね。

 

……今日は昼休みに、東洋経済オンラインのとある連載記事のバックナンバーを読んでいました。最後の記者による結びには、

「愛の反対は憎しみではなく無関心」という言葉があるけれど、愛憎半ばしているうちは親の呪縛からは逃れられない。それこそ親の死に目に会えなくても「それが何か?」と言える境地に一度は至らなければ、いったん歪んでしまった絆から自由になることはできないと、私は思う。

とありました。あまりに痛い所を突かれたのか、気が付いたら自席で大きな大きなため息をついていました。