ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

あり得た私

なのかな、と思います。自分で勝手に過去形にしているだけで、現在進行形なのかも知れませんが。

 

最初に燃えているのを見た時、私は対象に過度に同一化をしてしまっていたなと感じた。Mtのトランス当事者が「私は男性」と言う時、イコール性自認が男性とは限らないと考えています。自分の外見的・社会的な性別移行が進んでおらず、いわゆる「素質」も備わっていない。そういった場合、周りの迷惑にならないように性他認に合わせた名乗りをしているのだと。だから、セクシュアリティが明言されてはいなくとも、女性になりたい思い・薄毛であること・青髭が濃いこと……それらを真実だと思い、勝手に自分を重ねていました。男性と名乗るのは素質の無さ故だろうと、脱毛をしていないのは金銭的事情だろうと。

これらの真偽はもはやわかりませんが、少なくとも私が自身の置かれた状況や持ち合わせた条件から、対象を重ねて見ていたことは確かです。

  

一連の行いについても、仮にトランスなら(しかもある程度年齢を重ねてからの移行であれば尚更)わからなくはないものである気がします。なりたくてもなれない。既に男性として完成した身体では、近付くことすら叶わない。羨望や嫉妬は、ともすれば敵意に変わります。

あり得たかも知れないのは、外見だけでなく内面についても。こうして外野ぶって書いていても、見る人が私を見れば同じなのでしょう。その自覚はあります。身体を変えたい思いを表明する言葉を持た/てなかった頃は男性たろうとするあまり言葉が肉欲と未分化で、自分の在りたい姿を浮かべつつも周りには恐怖を抱かせるような言葉を何度も吐いていたことと思います。

 

反省していると口では幾らでも言える。だからこそ、自分自身をアップデートしていることを態度や振る舞いで示していかねばならないと強く感じます。過ちを犯したら認めること。自分が相手に付けた傷ごと自分を引き受け、綺麗ないい子ではいられないのだと諦めること。私は自分が持つ攻撃性に無自覚だ。おとなになろうぜ。

『言われなくなったら終わり』……こればかりは両親の言葉に賛同します。