ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

I Am Here

本日は仕事帰りにドキュメンタリー映画「I Am Here -私たちはともに生きている-」を観に行って参りました。定時ダッシュに成功し、ギリギリセーフでバタバタと田端に到着。シアターに到着すると、残っていた席はまさかの最前のみ。他のお客さんにでかい図体が申し訳無いと思いつつ、いつもは職場を出たらすぐ外すネクタイも―――トランスプライドカラーのものを―――着けたまま、粛々と鑑賞させて頂きました。

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監督は看護師でFtMをオープンにして啓発活動をされている浅沼智也さん。トランス当事者の医療アクセス調査等でお名前は拝見していましたが、実際にお会いするのは初。

映画本編は1時間。GID特例法を中心に、カミングアウトや治療、就労等のトランス当事者が抱える問題について、多くの当事者が入れ代わり立ち代わり語っていく形式。出演された方々は、8割方が名前と顔を(私が一方的に)知っている*1活動家の面々。第一線にいる活動家の言葉って私には最近どうにもキラキラし過ぎていて、「そうは言っても理想論じゃん」と吐き捨てたくなることもありました。しかし、見た目問題をはじめ困難が付きまとう現状も含め語りながら、より生き易い社会・余計な苦労をしなくていい社会を目指し画面越しに訴える姿と言葉にはとてもエンパワーされました。

 

もう一つ感じたのは、出演者の面々が皆何らかの形で「闘ってきた」方だということ。家族に対して、国に対して、心無い言葉に対して。私もつい一昨日、街中で捨て台詞を吐かれたばかり。トークショーゲストでバー「新宿ダイアログ」店長・活動家の瞬さんが仰っていたように『同じ土俵に立ちたくないから』何も言い返さず堪えはしますが、やはりこうした目に遭うと悲しい気持ちになるものです。自身の見た目が社会的に許容されないことにも、そうした言葉を吐く人が多様な性の在り方を知る機会が無かったことにも。

話が逸れましたが、「闘ってきた」感について。出演者の語り口や面構えから感じるそれを私は持っていないということを痛感させられました。たとえ理屈や文言としては同じ言葉を語れても、あの方々のような「力」を乗せられない。こればかりはカミングアウトから逃げに逃げて、酸いも甘いも知らぬ舌ではできないこと。日々を生きることへのエンパワーこそされても、自分の周りで『小さな穴を空ける』『0を1にする』には結局のところ自分が覚悟を決めるしか無いのですよね。サードプレイス含めあらゆるものを捨てる覚悟……というよりは自分が傷付くことへの覚悟か。それができないことにはいつまでも宙ぶらりんだぞ、私。

 

タイトルにもなっている『I Am Here』という言葉。当事者がありのままを伝えること、既にいるということ。私はいちトランス当事者の立場として今夜1席予約をして観させて頂きましたが、いわゆる非トランス当事者の方にこそ観て欲しい作品だと思いました。脚色された大衆向け作品もそれ故の知名度インパクトがありますが、等身大の姿を知る人が1人でも増えることで、これからの世界がより優しくなって欲しいと願います。

*1:監督曰く、現在の日本におけるトランスの現状を顔出しで語れる人選のため、エスニシティをはじめとした課題は多いとのこと。