ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

『ホイッピング・ガール』翻訳プロジェクト応援イベント

【WEZZY MEETING #9】遠藤まめた×高井ゆと里×三木那由他 『ホイッピング・ガール』翻訳プロジェクト応援イベント 

 

こちらを先程まで視聴しておりました。webマガジン「wezzy」は仕事の昼休み中に日課のように巡回しているのですが、先月に見たことのあるお名前のお三方が並んでおり気になってはいまして。「WHIPPING GIRL」というトランス女性をめぐる書籍の翻訳出版に向けたクラウドファンディング期間中とのこと。私は自身の思想的立場ゆえに読む資格があるのだろうかという思いをずっと抱えていました。でも金曜日の夜は特に予定も無いし……と、安易ながらひとまずイベントを視聴してみようと考え滑り込みで申し込んだ次第。

 

拝見した中で特に印象に残ったのは、subconscious sexoppositional sexismという2つの用語。

前者について、identityほどはっきりしてはいなくても『言語化されていないことがたくさんある(遠藤代表)』ということが、自身のこれまでを振り返ってみてすごく共感できて。私は*1いわゆる典型的なトランス的エピソードを経てはいない身(だと思っている)。それでも思春期において「なんかよくわからんけど"違う"感じ」みたいなのは随所で感じていたわけで。それは自分の身体の構造であったり大人からかけられる期待であったりするのだけれど。治療やカウンセリング或いは日常生活を経てこれらに言葉が肉付けされていったり、更には今までと違う新たな私が形成されていったりもしています。こうした"流れ"を説明するには、identityという言葉では不十分であろうなと私は思います(というのは、単に私がidentityを固定的なものとして捉え過ぎているからかも知れないが)。

後者については、 今のトランスジェンダーを巡る(主にネット上の)言論空間において実はものすごく支配的な価値観なのではないかと、私は聞いた瞬間に感じました。『男/女で生まれたら一生男/女』『男女をきっぱり分けて生きてください(高井講師)』という説明には非常に既視感を覚えました。これで数々の論客の主張に全て説明がつく!とまで単純に捉えるのは危険にしても、この道がSex is real.という言葉に伸びているのだろうと想像します。

何でここまでアハ体験めいた感覚が私の中にあったかというと、早い話が私もそう考えているからなんですよね。現代の私達ができるのは、どう頑張っても法的社会的な立場の変更と疑似的な身体部位の形成まで。「ネイティブでありたかったけれどもそれは一生叶わない」という思いに囚われている自分は確実にいて。そこに折り合いを未だ付けられていないんでしょうね……という言葉を使うとただ言った気になってその実何も考えずに終わりそう。私がこれを思う時、それはただの自分の一価値観であるだけなんだけれど、普遍の事実であると考えたい機制がすごく働いている気がしています。じゃあそう考えたくなるのは何故かと問われた時、これもまた折り合いという言葉でループさせてしまいそうになるのだけれど、自身の生活実態がカミングアウトもせずパートタイムに留まって3年以上経っている状態なことと決して無関係ではないはずです。「女性に生まれられなかった+フルタイムに移行できていない+パスすらできない+現代の医療にも限界はある=結局男じゃん」というところでしょうか。まだはっきり言語化できる段階に入っていないゆえ、雑な式にしか表せませんが。

 

書籍紹介を聴いているだけでもこのような気付きが湧いてきた90分間。気付いたらクラウドファンディングの支援もしていました。英語も苦手で無学な身には原書で読むなど到底できませんので、日本語での出版ができるよう期待しております。『トランスジェンダーがあなた達(シスジェンダー)の社会をどう見ているかを語っている(三木講師)』本ということで、世の当たり前(とされていること)を問い直す意味でも今一番必要とされている視点ではないでしょうか。飛び込みで視聴を決めて良かったです。

 

greenfunding.jp

*1:余談ながら、私はジェンクリの門を叩いた際には確信があったわけではなかったけれど、三木講師のような方でもそうであったというのは驚きでした。