ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

オカマの節句

とも呼ばれる4月4日。桃の節句端午の節句の間であるが故にそう呼ばれているこの日。中間というだけなのにオナベではなくオカマの方が呼称として取られるのは、「男性(に生まれた人)がする異性装」を笑いの対象にする風潮によるのだろうと邪推します。中間の日なので、中間らしいことを考えてみる。

 

一応はMtFとしての医療的ケアを受けている私ですが、100%「F」側に振り切れないというのは何度も拙ブログで述べている通り。男を辞める為に必要な医療の多くが女になる為に必要である、確信を持って女性側へ移行していく人達と同じ医療のラインに乗っかることになる、という話。外からは同じように見えても、その内心まではわからない。勿論、私からしたら「F」へ突っ走っているように見える人達の内心だってそれぞれ異なって一枚岩ではないはずです。

治療しながらの日々の生活を通して思うのは、もし自分が女性に生まれていたら、もっと遠慮無くノンバイナリ―を名乗れていただろうなということ。仮定ではない現実世界の私は、そう名乗るには男性ホルモンの影響を身体が強く受け過ぎた。第二次性徴、しかもかなり強いそれを経てしまい私の身体に刻まれた男性的特徴はあまりにも深い。自分の姿をどう見せようと「男か女かわからない」にすら至れず、常に「○○なである」が付きまとう。「男を辞めたい」中で、どうしようもなく男からは逃げられないのだと強く思います。

 

男女それぞれの性別として育つ経験やバイアスといった社会的な要素をなるべく介入させないように前段を述べましたが、こと身体という点ではやっぱり非対称です。いくらグラデーションと綺麗事を言おうが、黒い色はそうそう抜けません。それほどに男性ホルモンが身体に残す不可逆の爪痕は大きい。爪でもあり、男の枠から出ることを困難にする楔でもあるのでしょう。

「去勢した男」である私は、なんだかんだでもう先の見える年齢。あれこれと頭でこねくり回すくらいなら、地に足を付けて自分が*1妥協できる終わり方を考えるフェイズにシフトしなければならないのだけれど……それがとっても難しい。

*1:満足とか納得という言葉ではないのは、そうした言葉で表現できる状態には絶対になれないのがわかるため。ならせめて、死ぬ時に後悔ではなく妥協くらいはさせてよ。