ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

個人の見解です

と言えば、何でも免責されるかってそんなことは無いと思います。

ある集団なり団体なりでトップの*1立場にあるということは、即ちそこの看板を背負っているということ。仮に当人が望まなくても、否応なしに「どこそこの○○さん」という目で見られ評価されると思います。だからこそ、看板を背負った上で何らかの政治的見解を述べる際には慎重であるべきではないでしょうか。「どこそこの○○さん」である自分が「××(任意の内容)」を発する際、それは大衆にどう思われるか、世論にどんな影響を及ぼすか、誰かを踏んでしまわないか。その見極めは、私には想像も及ばない程に多方面への想像を馳せる必要のある知的な試みだと感じます。

トップに立つ以上は、言動の方向性がその立場としてのものにある程度固定される。そこを下りない限りは、個人としての考えは泣く泣く飲み込まざるを得ないことも出てくる。それはやむを得ないことでしょう。そこで、『個人の見解です』という言葉を用いれば立場を離れた言動が許されるかというと、必ずしもそうとは限らない。就いている立場とあまりにかけ離れたものであれば、集団内の部下ないし構成員から反感を買うのは当然かと。集団や団体としてのビジョンも見えにくくなるし、不本意なイメージを持たれる原因にもなりかねません。私自身は人の上に立つことは無いでしょうが、それでも何らかの意見を述べる際には自戒としても強く意識せねばならないことだと思っています。

 

これは私の中で「個人」と「立場」が未分化なせいで思うことなのかもしれません。ですがここ2~3日のネット論壇を見ていると、同様の考えの人はゼロではなかったようでちょっと安心しています。そこで見かけた見解や思想は同意できるものも非常に多いけれど、今の立場で語るべきことではなかったのでは……と感じるのです。

そんな、ただの「私は別人です」アピール。

*1:肩書、と読み替えても可。