ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

同性婚が必要な理由

やっと時系列を戻して土曜日の話へ。先月に引き続き、川崎市麻生区役所の講座を聴きに行ってしました。登壇者は「結婚の自由をすべての人に」東京訴訟の原告で、子育てをする性的マイノリティの支援団体「にじいろかぞく」小野春代表。この訴訟や講座タイトルでもある同性婚が必要な理由については、今まで概観してきたつもり。ただ、ネット論壇のいわゆる他称TERF界隈において同性婚も『性自認』を絡めて反論するような動きが目立っている現状。それに対して「揺らぎそう」になっている中、改めての理解の為に参加刷ることにしました。素朴に考えてみれば「何でダメなんよ」という立場なんですがね元々は。

 

小野代表は結婚を『生活保障のパッケージ』と仰っていました。生活上の様々な場面において法的な婚姻関係に無いことで行えない手続きや享受できない恩恵は、1000をゆうに超えるのだとか。ただ戸籍上同性というだけでそこまでの差があるのかと驚きましたよ……。生涯非婚非交の身でもあらゆる場面で「できるはずのことができない」のがどれだけ大変か、その想像くらいは私でもできるつもりです。

曰く、ただ『安心して暮らせる為の保障が欲しい』だけなのに、その不利益を我慢しろと言い放って良いものなのか?何故「戸籍上同性のカップルだとダメ」になる?「法的に認められていないか」?じゃあいつ認められるのでしょうか。単純に考えて、利益を受けられる人は増えた方が良いはずでは。同性カップルだとダメになると思う理由を我々一人ひとりが考える必要もあります。なんというか、素朴に単純に……とはいかないものですかね。

 

……と述べつつ、講座を通して「自分が感じたこと」よりも先に「ヘイターしぐさ」とでも言える"手癖"で疑問や質問を浮かばせる自分がいました。"手癖"を介さない意見としては上述の通りなのですが、染み付いたものを抜くのはこうも大変なのか。アライの前では肯定的に考え・表明する一方で、あちら側の意見を目にするとそこに靡いて同調したくなる自分。理想を掲げつつ現実との折り合いを付ける必要があるのもそうだが、自分が打たれない為の風見鶏でもあるかも知れない。所与の枠内に合わせることは日々を生き抜く上で必要であっても、「だからしょうがない」という態度は差別的な社会構造の追認になりかねません。社会に対して抱く理想と現実を生きる上での考えが、もう少し近づけられると良いのですが……。