ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

いつだって

『〜君の その心は 偽ることなくそこにいるんでしょう』と、あの作品がアニメ化した際の主題歌をふと思い出す。出会ったのはアニメ化より少しだけ前だったか。当時は治療はおろか、ジェンダーアイデンティティについても今後の生き方についてもマトモに言語化できていなかった。それでも、心の奥を掴んで揺さぶられるような……なんだろう、共感だったり憧れだったりはたまた安堵だったり。そのように後に言語化できる感情を覚えていた気がする。

 

きっかけはTwitterにおいて、作者である氏があるツイートに「いいね」を付けていたこと。その内容が、私含め多くの当事者の琴線に触れる作品を生み出してくださった氏からすると真逆に映ったことで、批判や失望や悲しみの声がどんどん挙がってきていた。

「真逆」と述べたことに、「氏は当事者達に寄り添う作品を生み出すはずだ」という当事者目線からの願望が含まれているのは否めない。それでも「である」ではなく「に映った」と述べたのは、私は氏の元々の本件に対する立場を知らないから。つまり「いいね」以前より私(達)の願望通りの立場でない可能性もあるだろうから……と付言しておく。

 

何故、上述のようなあまり考えたくはない可能性を浮かべてしまうか。「2/6 0:25」の氏のツイートにおけるツリーがその理由。『高槻くん』に関するくだりを読んで、私は直感的に腑に落ちてしまった。あの「いいね」について、「やっぱり」と、「高槻よしのが作者としての氏の自己投影であるのなら、そうもなるよね」と正直思ってしまった。この腑の落ち方が私個人のバイアスがかかった誤ったものである可能性も大いにあるのであしからず。

当該「いいね」と同様の主張をするアカウント群には、理由は様々だろうが思春期に似たような思いを抱いた(が、今は違う或いは折り合いを付けている)と述懐するアカウントが*1目立つ。ジェンダー規範への疑問、反発心、それらを飲み込んでいったこと。

『『『私達は我慢した/させられた。なのに―――』』』

SNSのタイムラインは余程気を付けない限り、自分の見たいように作られていく。その中で悪目立ちする存在は特に目につく。そこをベースに"私達"を見た時に、『苦労も知らずにのうのうと―――』との怒りから連鎖的に怨嗟が齎されることに不思議は無い。勿論それだけではなく、加害への恐怖や性器憎しをはじめ様々にきっかけはあるとは思うが。

 

トランスジェンダーの権利を巡る両陣営からの指摘を受け、改めて学ぶ意志を示してはいる氏。しかし安心はできないと感じる。しばらくは様子見だろうか。両方の立場を並列して見ることは、元々"敵情視察"から現在の立場に至った私からすれば非常に難しく思う。

なお私自身は当該「いいね」に近しい立場を取りつつも、いち当事者として氏の作品が大いに刺さった立場でもある。これからの氏の動向によっては私と主義主張が相対する可能性もあるが、氏には当事者に寄り添う人であってほしいと我儘にも願わせていただく。

 

※本記事の一連、自分を思いっきり棚に上げていることは承知の上。

*1:私の狭い数百の観測範囲ではあるが。