ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

高校時代

さて自分史もいよいよ高校時代。長くなるなと思っていたら案の定長くなった。中学より世界が広がった分エピソードも増えるのは当然だが。学校適応の問題が落ち着いたせいか、実母の介入が増加。進路決定も含めて高校時代の選択の多くは実母が糸を引いていたと改めて思う次第。

 

学校適応

中学時代には「学校への適応」が何よりの課題だった故か、進路決定は実母の勧めによるものが大きかった。当時の私は「近隣の都立高校で部活に打ち込めれば良い」くらいにしか考えていなかった(かなり盛んな高校が近くにあった)が、結果的には母が最初に情報を持ってきた私立に入学することとなった。部活の盛んさや同級生が受験すること、その私立は当時の偏差値よりもかなり上だったことから、正直な志望度としては都立の方が上。しかし、学校説明会での「自由な校風」「英語教育」といった謳い文句から、実母がかなり私立を勧めてきたのを覚えている。雰囲気自体は悪くなかったので第一志望ということにして、中学の内申点による推薦入試突破を目標に。推薦で合格したものの、志望に至る経緯もあってか面接で言葉を紡ぐのにはとても苦労した。なにせ自分の心の底から湧き出る言葉が何一つ無いのだから、受け売りを組み合わせるしかできなかった。

進学先は、自宅からバスを使って40分弱かかるミッション系の私立高校(共学)。出身中学から進学したのは自身のみだったので、入学当初はとても緊張した。友人関係を築いたのは、比較的大人しめなメンバー。クラスの半分程はチャラい人達で、最後まで苦手意識は拭えず。人間関係の中心は、中学に引き続き入部した吹奏楽部。金管楽器の先輩達(男子)にかわいがってもらいよく食事にも行ったが、帰宅が遅くなり1年次後半は門限を設定された。

担当CPとの面接は中学後半より実母のみが行くようになっていた。1年次の後半に近況報告も兼ねて久々に再会したが、それが最後の面接となった。程なくして実母も含めて9年弱にわたる治療は終結。しかし、学校適応にまつわる諸々が落ち着いた分、色々な選択”への実母の介入が目立つようになってきた。「宗教科」の時間(公立でいう倫理みたいなもの)の課題で通う教会は、実母が近所を通って『良さそう』だと勧めてきた自宅最寄りから隣駅の教会。家から徒歩圏内にも教会はあったのだけれど(12/24の記事参照)。

julia88h.hatenablog.com

また、2年次の研修旅行(修学旅行の代わり)はいくつか行き先が選べたが、その中でも米へのホームステイを実母から『これからは英語をやっておくべき』と猛プッシュされた。受入先ファミリーの多くが飼育する犬が苦手という理由で選考には通らなかった為に第二希望の国内となった。選考結果がわかった瞬間はほっと胸を撫で下ろしたものだ。

進路についても、ピアノができず音楽の道は早々に断念したので他に何があるかと話し合った際に自身が不登校から回復し今は普通に高校に通えていることやそれは治療のおかげだと思うことを話すと、実母は臨床心理士はどうかと提案した。実父は自身と同じ理系に進むことを勧めたが、小学校算数未履修で数学がてんでダメな私には最初からその選択肢は無かった。周囲には実父・学校の教員・担当CPくらいしか働く人のロールモデルがおらず、私もその他の仕事についてイメージを全く持てなかったので、「心の底からやりたい!」という訳ではなかったが(寧ろ教育現場における諸問題研究の方が興味があった、今で言うと名古屋大の内田氏のような)、大学では心理学を専攻することを意識していった。大学附属だったので内部進学でも心理学専攻には進めたが、『外に出た方がいい』『実績を見て』との実母の声に気圧されて結局1年次後半の時点で外部受験をすることに決めた。2年次に初めて行った大学のオープンキャンパスも、その情報の大半はまず実母がPTA(3年間所属し、他の保護者や教員と盛んに交流したと聞く)を通じて持ってきたものであった。

 

性別にまつわること

男子トイレや更衣室は、中学時代よりも更に嫌になっていた。第二次性徴のこともあるが、設備上の問題も大きく。例えば、専用の更衣室があるのは女子だけで男子は教室で着替えるので隅に隠れにくい、運動部やチャラい面々が上半身を見せ合っていた(腹筋が割れている人の多いこと!)、朝顔が小さく仕切りも上半身に満たないほど小さかった等。体育の授業で着替えを急いで済ますのは中学時代と同様。グラウンドや体育館での授業はジャージがあったのでまだ良かったが、水泳の授業では水着がブーメランパンツだったのが死ぬほど苦痛だった。しかし「この身体で生まれた以上は仕方ないもの」だと思っていたので授業中はなるべく目立たないよう努めた。留年を恐れていたので、見学しようという考えには至らなかった。多目的トイレが無かったので、端の朝顔を選ぶ・人通りの少ない階に行く等で対処していた。

また、制服は近隣の高校の中でもかわいいと評判のデザイン。ネイビーのブレザー、金色がかった茶色のネクタイ/リボン、アイボリーのセーターとベスト。デザインの秀逸さ故に不快感はあまり無かったが、ボトムスだけは男女別の色。男子はダークグレーのズボンだったが女子は緑基調のチェック柄スカートで、これだけは穿きたかった。制服は指定の販売店が複数あったのでどうにかして手に入れられないかと考えたこともあったが、不審がられると思ってやめた。

 

 人間関係については、中学以上に周囲が男女で分かれるようになった。性格や趣味等の理由で混ざりたい女子グループはクラス・部活共にあり、彼女らも個々には話しにくい訳ではなかったが、男女で分かれる空気感から自ら壁を作ってしまった所はあるように思う。自身の目には、高校の人々は「男子校と女子校がひとつ屋根の下に共存している」ように映っていた。もしかするとチャラい人達の方が性別の垣根無く交流をしていたかも知れない。そのような状況だったので、高校でも恋愛・交際は無し。テレビや漫画で見る恋愛を自分もするというイメージが持てなかったことに加えて、体毛や肥満で容姿が今以上に悪かったので、何かしようという気も全く無かった。恋愛感情を向けることも向けられることも、一体何のことなのかピンと来なかった。少なくとも"そういう意味"での好意を向けられることが皆無だったのは確か。尚、女子に対しての「入れ替わりたい」という気持ちは中学時代から継続。

 

身体への不快感はいよいよ出揃った。高校に入学する頃には髭が口周りから頬に至るまで生え揃い、毎朝剃らなければ目立ってしまうようになっていた。剃る手間や生えている感覚も嫌だったが、周りと比べてもかなり濃いことを茶化されるのはもっと嫌だった。1年次中盤からは胸・腹の発毛も始まり、水泳の授業時には奇異の目や時にからかいの声が向けられるのが苦痛で堪らなかった(温水設備の為11月まで水泳があった)。他にも数人同じような人がいれば良かったのだが、不運にも胸・腹まで発毛しているのは私だけであった。剃りたい気持ちに両親への負い目がまさってしまったのは、中学時代から変わらず。

また、成長に合わせて体格がますますがっちりしてきたことも苦痛であった。周囲の人から褒め言葉のつもりで投げかけられる『ガタイがいい』を嬉しいと思えたことは一度も無い。痩せたいと強く思っていたが、両親が期待も込めて『もっと食べないと』と言うのを無下にできる程心を鬼にはできず、「ご飯のおかわりはしない主義」を除き1日3食+時に間食はきちんと食べてしまっていた。尚、最も太っていたのは部活も引退した3年次で、現在+15kg(!)

 そして何より嫌悪感がはっきりしてきたのは、自身の性器に対して。いくら小さいとはいえ付いていることへの得も言われぬ気持ち悪さは毎日のトイレと入浴、また衣服が擦れる際に感じていた。どうにかしたいと実父から譲り受けた古いパソコンで調べる中で、「タック」という股間をすっきり見せる方法があるのを1年次終盤~2年次前半頃に知る。参考にしたのは下記サイト。まだ現存していたとは。

kokan.tvlife-net.com

接着剤を使うやり方は材料入手困難につきできず。当時の通販なんて家族の了承無しにはできないし、そもそも実父が通販をさせない主義だったので仕方ない。代わりに、スポーツ用のテープを使うやり方を休日や部活の無い放課後に試行錯誤するように。睾丸の体内収納は、性器への違和感も含めた有事の際の説明をできる自身が無く行えなかったので、タックの仕上がりはお粗末なものであった。しかし、何もしていない時に比べたら違和感はだいぶ軽減された。

 

…とまぁこんな具合に現在まで続く違和感の顕在化が見られた高校時代。まず対処を試みたのが体毛でも体格でもなく性器周辺という辺り順番を間違えている気もするが、一番不快な場所なのでしょうがない。いっそタックに失敗して"有事"にでもなれば、そこからカミングアウトできたのだろうか。顔色を窺ってリスクを避けてしまった当時の自分を殴りに行きたい