ボールとポールを取ってホールを付けたい

男の身体のままで死にたくはない。

百毒の長

金曜日の夜。耳鼻科の処置を終えて気分も良くなって帰ってきたのですが、パソコンを開いたらもう最悪。怒りと罪悪感とが混ざり合ってぐちゃぐちゃです。、実母と電話して「法要欠席」を勝ち取れたと思ったら、それを即座にひっくり返してきましたよ、今度は実父が。こんな長文pdfまで送りつけてきて。「そんなに家族ごっこが大切か」との憤りと同時に「やっぱり予定は辞退して法要に参列すべきなんだ」との諦めも沸いています。以下長いですが実父のお気持ち表明。

 

(私)へ
2021.06.01
コロナウイルスの猛威を上手に避けながらなんとか無事に日々を送っている様子、安心しました。
心身ともに健康で生活できることは長い人生を送るために欠かすことのできない第一の条件です。現在の状態は如何かな。
二番目に重要なことは、私は何のために生きているのかを問いつつ確認して、答えを求めて生きていくことです。しかし、このことは人生を重ねても簡単には解決することのない悩ましい問題だと感じています。
(私)のように若い年代では、日々の生活を楽しむことが第一で、生活の妨げになるような難しいことは何もないとは思います。爺さんには羨ましい限りです。
さて、難しいことはさておき、(私)に関して心配なことがあります。しっかり逞しく生活しているていることと思い、そのことに関しては安心していますが、生活振りが分からないこと、一人生活を長く続けていることです。子供だからと言って、生活をコントロールするつもりは毛頭ないが、親子の間柄なのだからお互いがどの様に生活しているのかと心を寄せ、たまには会って近況を報告しあうことで、安心したいものです。愛する人との生活、家族との交流は、独りよがりの生活になることを予防するための薬のようなものです。そのように思いませんか。
ところで、(私)には自分の人生を共に送ることができるパートナーは居るのですか。人間は元々一人で生きるものではなく、他者と関わり合いを持つことで充実した生活になると考えます。そのために先ずはこれと決めた人と一つ屋根の下で生活することで、その人を思いやる心が育ち、それが社会を構成する多くの人々との良好な関係を保つ基本となるのではないかと思います。何でも一人でやれると自分中心の心や態度が強くなり社会と断絶することになります。同年輩の人との付き合いは大切ですが、そのような友人からは人間が長年育て積み上げてきた生活習慣や慣行に基づく行動に関するアドバイスや苦言を受けることは多く望めませんので、結果として自分の考え方が中心の生活になるのではないかと心配します。多様化が求められる時代だから、これでなければいけないとする固定的な考え方は古いのかもしれないと思いつつ心を痛めています。
今回、(祖母)婆ちゃんの命日に3回忌法要を計画していますが、既に予定があり参列できないとママから聞きました。どのような予定かは知りませんが、このような時に、家族と気持ちを通わせていない生活の結果が現れるものです。3回忌法要か自分に予定のどちらが優先度が高いか考えて、是非とも参列してほしいと希望します。
何時も言うことですが、我々がこの世に生を受けたのは、その背後には父母とその両親、そのまた両親と数えきれない数の祖先が命を繋いできてくださったお陰であることを心の片隅に忍ばせておいてほしいと思います。
コロナウイルスが若者に広がっているとのことですので、十分に気を付けてください。こちらは、予防策が進んでいますので安心してください。

 

往生際が悪い。それに、耳ざわりの良い言葉を並べ立てて悪意が無いからこそ分かり合えない確信ができてしまう、善意のカタマリはこれ程に人の心を削るのかと思う。フレーズをピックアップして見ていく。

 

まず『子供だからと言って、生活をコントロールするつもりは毛頭ないが』と書いている時点で、コントロールする気がある上で書いている予防線にしか私には見えない。少なくとも、私は今までの言動からそう感じざるを得ないよ。そんなに私が"あなた方が欲しい私"を供給し続けないと不安か?『たまには会って近況を報告しあうことで、安心したいものです』と言っているからには安心したいんだろうよ。でも私はあなた方に会うとなると不安でたまらなく緊張するようになってしまったんだ。『愛する人との生活、家族との交流は、独りよがりの生活になることを予防するための薬のようなものです。そのように思いませんか』って……いいえ思いません。毒です。お互い様ですが、あなた方も独りよがりに見えますよ。家族との交流を強制されるくらいなら、私は独りよがりで結構。自分の為に自分らしく生きた方が何倍もマシです。

『先ずはこれと決めた人と一つ屋根の下で生活することで、その人を思いやる心が育ち、それが社会を構成する多くの人々との良好な関係を保つ基本となるのではないかと思います。何でも一人でやれると自分中心の心や態度が強くなり社会と断絶することになります』……ここにある「パートナーとの(結婚・)同居→思いやり→社会との良好な関係」という図式。あまりに「こうに決まっている」という固定観念が強過ぎて呆れてしまいます。Aセクシュアルの私はパートナーもいないし作る気も無いですが、そういう数多の人達も侮辱する言葉ではないですかこれは。「パートナーがいないと社会で良い人間関係が築けない」と不安を駆り立てやしませんか?私は社会と断絶してはいません。あなたの言葉の最も身近な反証になります。それに、『同年輩の人』には年長者である家族ができるような、自己中心的な考えを脱却させるようなアドバイスは望めないと言いたいんでしょうかね。どうも「『自分の考え方が中心』=悪・罪(sin)」という考えが根底に無いとこういう言葉は出てこないと感じる。独善的なのは確かに私も好かん。だが、自分の確固たる考えを・意思を持って何が悪い。私がそれを持ったら不都合なことでもあるの?しかも、私の友人達にだって失礼だ。音楽仲間、戦友、大切な友人……高校の恩師や前職の元上司のような尊敬できる年長者……たくさんのことを教わって、時には異なる思想で対立したりそれこそ独りよがりな依存性を厳しく指摘もしてくれたり。年齢じゃないよ。そんな固定観念だらけの頭で『多様化が求められる時代だから、これでなければいけないとする固定的な考え方は古いのかもしれないと思いつつ心を痛めています』と言われても説得力が無いし、あなたがその頭頂部のように"薄々"思っている通り古い。というか、心を痛めている時点で固定的な考え方から抜けられていないよね?新しい時代や私個人に寄り添っているように見せておいて、それ逃げ向上なのでは?多様化って、それ世間的に聞こえがいいから使っているだけじゃないの?趣味の悪いオナニーだ。私が「古いよ」と言ってもきっと認めないものね?

法要についてだって『どのような予定かは知りませんが、このような時に、家族と気持ちを通わせていない生活の結果が現れるものです。3回忌法要か自分に予定のどちらが優先度が高いか考えて、是非とも参列してほしいと希望します』と、一度「行けない」と言って実母が渋々了承して終わったはずだったのをまた蒸し返してくる。あなた方とは気持ちを通わせたくもないし、私はこの言葉に対して「当然の報いだ」ぐらいには返したいけどね、本当は。この予定は、今の趣味・活動を続けている中でもそうそうあることじゃないんだわ。2年に一度あれば良い方ってくらいに稀なことでね。形だけ法要に私がいるのがこれほど懇願するまで重要なことなのか、私にはわからないなぁ。最後の『何時も言うことですが、我々がこの世に生を受けたのは、その背後には父母とその両親、そのまた両親と数えきれない数の祖先が命を繋いできてくださったお陰であることを心の片隅に忍ばせておいてほしいと思います』というのは小さい頃から言われてきたことだけどね。でも私はそれを更に繋ぎたいとは思えないんだよ。それは自分のセクシュアリティも関係しているけれど、皮肉にも父母を見てきたからこそそう思ってしまって。『一人生活を長く続けて』外の価値観を見聞きできたからこそわかった。敬虔な仏教徒、或いは家父長的でもあるのかな。その親心は、善意は、残念ながら私にとっては首を絞める真綿だったんだ。

COVID-19の感染対策がいくらお互いにできていたとしても、今の私はあなた方に会うのがとても負担。イエありきで一面的な生き方しか認めない古い考え方が、多様性を認める時代に自分らしく生きたい私にはとてもとても負担。大事な予定があるのは本当だけれど、この負担もあって悪いけれど参列はできない。価値観についても良い悪いではなくかなり隔たりがあるようだし、できれば『会いたい会いたい来て来て』ではなく、お互いに考えを巡らせる期間を持てませんか。冷却期間と言うと少し意味合いが変わってしまうかも知れないけれど。「便りが無いのは良い便り」という言葉もあります。勿論、有事の際の連絡まで断つというわけではありません。恩知らずに変貌してしまった訳でもありません。ただ、子の立場としてはもう少し私を信用して任せて欲しかったなと思うのです。法要当日は、スタジオから天の祖母に手を合わせます。

 

……返信のつもりで書いたけど、このくらい言えれば良かったのになぁ。ちょうど通院日で助かった。主治医に見てもらおう。通院したその足で実家には徒歩で行けるけど、それは流石にリスキー。